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ノーベル賞のエピソード

エピソード集


科学者のエピソードを集めてみました。 天才と呼ばれた人も、実はこんなエピソードが・・・笑えるものあり、泣けるものあり、唸るものあり・・・

*参考図書:「心にしみる天才の逸話20」 山田大隆著 講談社

ニュートン  アインシュタイン   湯川秀樹   キュリー夫人   ファラデー    エジソン  
ラボアジェ ダーウィン ジュール メンデル ワット パスツール
ライト兄弟 メンデレーエフ ガリレオ ガウス ゲーテル ボルツマン
北里 柴三郎

ニュートン

エピソード 1 ニュートンは超人的なメモ魔だった。
これは分野を問わず、創作活動にかかわる人たちは、その傾向にある。
ニュートンは、その記録の範囲と量がハンパじゃない。
公開されているニュートンの家計簿には「全て」の金銭のことが書かれており、
彼が大学の食堂での着席位置を上位の席と交換してもらうために「6ペンス」支払っていることも分かる。
結構、見栄っぱりだったんだね。
エピソード 2 「私がほかの人より遠くを見ることが可能だったのは、私が巨人の肩に立ったからである。
私が世間からどのような目で見られているか知らないが、私は、海岸で美しい貝や滑らかな小石を求めて彷徨い歩く少年と同じであり、
私の眼前には、未知の真理をたたえた大海が横たわっている。」

ここでいう「巨人」とは、レオナルド・ダ・ビンチ、ガリレイなどの先人たちの偉大な業績のこと。
ニュートンの独創的な偉業の多くが、先人の積み上げた多くの知識のうえに打ち立てられたことは、心に留めていたい。
エピソード 3 ニュートンはありとあらゆることに手を出していた。
万有引力、微積分法の発見、運動の三法則・・・etc。
さらには、聖書研究、錬金術、年代記研究、医化学など等。

彼は54歳のときにケンブリッジ大学教授を精神疾患のために辞任している。
その原因だが、彼の遺髪から大量の水銀が検出された。
長年の錬金術研究で使用した水銀の中毒による精神疾患ではないかという説もある。

ニュートンは言わば「無駄の大家」でもあった。
しかし、その無駄さえが今や研究対象になってしまうという「天才」・・・・・・
エピソード 4 ニュートンはイギリスの科学を100年は遅らせたと言われています。
61歳で王立協会会長となったニュートンは、彼と対立する人物を学会から排除・抹殺していきました。

また、彼が著した「プリンキピア」は幾何学で書かれていますが、使いやすいものではありませんでした。
しかし、この使いにくさの批判は許されず、おかげで、解析力学の中心は大陸(特にフランス)に移っていったというわけです。 怖〜い。。。

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*アイシュタイン
エピソード 1 アインシュタインが、相対性理論を考えることができたのは「特許庁」という「暇な公務員」だったから、という説はよくききます。
しかし、それ以上に「特許庁」に勤めていたことの利点は「審美眼が養われた」という意見もあります。

日本では特許審査の基準は「今までとは違う」ことだけですが、欧米では「すぐれている」ことに主眼がおかれます。
アインシュタインは、特許審査という日々の知的労働の中で、独創的理論形成に欠かせない「何が大事で、何がくだらないか」を判断する審美眼を身につけたのでしょう。
エピソード 2 彼は、ものごとを考えるにあまりに時間がかかりすぎ、子どものころ「退屈神父」というあだ名がついてました。
そんな彼が科学に目覚めたは、ベルンシュタインが書いた「市民の自然科学」という全5巻を読破してからだそうです。

彼はこのことをこう語っています。
「熱烈な信仰心が12歳で終わったのは、ベルンシュタインの本を読んでからだ」
エピソード 3 彼が発表した特殊相対性理論、光量子説、ブラウン運動理論。。。これらの三大論文は当時の物理学会で最も注目された研究領域でなされています。

無名の研究者もたちまち学会のトップに踊り出られる登竜門を選んでの研究でした。

既成社会での新参者の成功方法は・・・
 ・思索する
 ・第一級の情報を徹底吟味する
 ・一兎を徹底して追い、必ず仕留めること
エピソード 4 実は彼は成人してから本をほとんど読まなかった。

湯川秀樹がアインシュタインの部屋に入って、息を呑んだのは本が無いということ。
彼の部屋には、ユークリッドやニュートンの物理書などが約10冊。
論文集などの文献を含めても、100冊は無かったと言われています。

直感とオリジナルティのみで物理学理論を変革してきた彼らしい話です。
本は、読めばいいというものではないんですね。
エピソード 5 彼が書く論文もまた、特徴的です。 彼は、自分が論文を書く場合に、他人の論文を引用することがほとんど有りませんでした。 逆に、それだけオリジナルティが有るわけです。
余談ですが、ワトソンとクリックのDNA構造の論文も「ネーチャー」で1ページ半でした。
エピソード 6 徳島県穴吹町の光泉寺にある三宅氏のお墓に、アインシュタインの自筆のサインとドイツ語の追悼文が有ります。
アインシュタインは1922年に日本に来る途中の船の中で、ノーベル賞受賞のニュースを聞きましたが、実は同時に彼は腸カタルで死にかけていました。
この時、同じ船にいた九州大学教授の三宅氏が、アインシュタインを治療して一命をとりとめました。
1945年、三宅氏が岡山空襲で亡くなった時に、アインシュタインが追悼文を手紙で送り、これが墓碑に刻まれました。
人と人の出逢いって不思議……。

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*湯川秀樹

エピソード 1 昔のノーベル賞は「最も重要な発見や発明をした者」という選考原則がありました。そのため重要な理論が評価されない不公平のある一方で、明らかに些末な発明や発見で受賞する例も出て、1940年代前半には賞の権威もやや下降気味でした。

そんな中で、1949年の湯川の「中間子理論」での受賞はノーベル賞の発展途上、画期的な意義を持つものでした。
それは明らかに「理論」に対して与えられたからです。

以降、ただの個別の事実の発見といったものではノーベル賞は受賞できなくなりました。
エピソード 2 彼は幼少のころから、無口な読書好きで学究的な少年でした。 余計なことは京都弁で「言わん」と宣言して黙ってしまうため、「イワン」というロシアの名のあだ名がついたほど。
そんな性格とひ弱さがわざわいして、子どもの頃は「いじめられっ子」。 旧制中学一年のとき、イワン少年はよく三年生の柔道部の先輩にいじめられていました。 ところが、定期試験直前になるとこの先輩は他の柔道部の同輩と一緒に、「一年生」のイワン少年から「三年生」の数学の予想問題の講義をおとなしく聞くのでした。 しかし、試験が終わると、また元のようにもどり・・・・・・。

この数学の天才が、どうして物理学の分野へ? そこには実はある「先生の失敗」が・・・  つづく    (^。^)v
エピソード 3 湯川自身の回想によると、高校の最後の頃の理科の授業で、先生がしでかした実験の失敗が、強烈な印象に残ったということです。

それは電気をある液に流す実験でした。その先生は探究心が旺盛で、ある法則が成立するために液体の入っている管を太いものに変えてみたそうです。ところがその結果は予想に反したものになりました。
あわてまくった先生は、事態をなんとかしようとしましたが、ますます支離滅裂に……。
面白がったのは生徒たち。「俺たちで答えを考えてやろう」ということになりました。生徒たちのほうが偉い?(笑)

湯川はこのハプニングを見て、自然の奥深さへの感銘が彼の興味を「数学」から「物理」へと転向させたのでした。

ところで、もし事前にその先生が実験のリハーサルをしていたら、この実験はしなかったでしょうね。
エピソード 4 彼がノーベル賞を受賞したのは「中間子理論」というものですが、そのアイディアを思いついた瞬間を次のように回想しています。
「毎晩同じことを考えていたら、天井板の年輪模様の一部にぐりぐりがあり、その外をひょうたん形に年輪が囲んでいた。
次の日、気分転換にキャッチボールをしているとき、昨晩の二つのひょうたん形の年輪を思い出した。そして、ふと投げ返そうととして手にもっていたボールを見たとたん、粒子どうしでボールを投げ合っているから、反発せずに原子核を構成しているのだという仮説を思いついた」
一つのことを考え続け、フッと気分転換をする。その瞬間にアイディアって浮かびますよね。
ところで、彼は不眠症で悩まされていました。 それがなければ、天井板の年輪をしげしげと見つめることもなかったのかも知れません。
次回の彼のエピソードは「湯川秀樹とさかさクラゲ」です。(^。^)v   (でも、「さかさクラゲ」なんて完全に死語だよな〜)
エピソード 5 彼は、あるマイナーな専門誌の対談で「若いころは『さかさクラゲ』が大好きだった」と漏らしたことがあるそうです。(えーと、「さかさクラゲ」という言葉を知らない人はネットで検索してください。^^)

それだけです。(今回はコメント無し)

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*キュリー夫人

エピソード 1 彼女がノーベル賞を受賞したのはラジウムという放射性元素を分離したからですが、このラジウムを抽出する研究では、8年間という年月と鉱石8トンを使用。
この鉱石を夫のピエールが毎日、大学の正門から、実験室まで運び、それをうすで入念にすりつぶしたのでした。
8トンから得られたのは0.1グラムのラジウム。 最先端の研究と言えども、あるときには、こんな単純な力仕事を8年間も続けることが必要です。

自分を信じていないと、こんな仕事はできないと、僕はつくづく思います。
エピソード 2 彼女は、自分が4トンの鉱石から0.1グラムの得た、5000(!)ステップを越す段階的分別濃縮法は、特許をとらずに公開しました。
アメリカは彼女の製法を無特許で活用し、世界最大の工業力をバックに、ラジウムやコバルト、ウランなどの放射性物質の濃縮大国となりました。
広島、長崎に落ちた原爆は、この濃縮技術を使って作られたものです。

無欲なキュリー夫人は、ただ科学の発展を祈っただけなのに……使われ方が間違うと、悲劇に繋がります。
エピソード 3 ところで、結婚前のキュリー夫人にダンナのピエールは猛烈なラブレター攻撃をしたのは、有名だ。しかし、研究一筋だった彼女は交際をがんとして拒否した。ピエールの押しがもう少し弱ければ、核物理学の発展もずいぶん遅れていただろう。
いよいよ彼女が帰国の準備をしている時に、ピエールが自分の故郷へ遊びに誘った。その申し出を承諾した彼女は、ピエールの実家で求婚され、一晩考えたすえ「ウイ」と答えた。
この一言で、核物理学の近代は扉が開いた。

まぁ、マリーも、故郷のポーランドで一介のさえない物理教師で終わるより、パリで研究者として自分の能力を試したいという上昇志向があったんでしょうね。
エピソード 4 1934年、キュリー夫人は、白血病で亡くなる。彼女が40年間の研究生活で浴びた放射線量は、通常の人の6億倍!
ソルボンヌ大学のキュリー博物館には、夫婦の実験ノートが残されているが、このノートは今でもガイガーカウンターが振り切れるほど大量の放射線を発し、「危険物」として扱われている。
彼女こそ、歴史上最初の放射線の被害者だ。
エピソード 5 夫の死後、彼女はソルボンヌ大の講師(夫のいたポスト)になった。女性が大学の講師になるということは、当時のフランスでは考えられないことだった。
彼女の講義は大好評で、一般市民も聴講につめかけたほどです。
しかし、フランス学士院会員選挙では、女性という理由だけで反対され、選出されませんでした。
その後、教授になった彼女は、もちまえの自由主義とエネルギーでフランス科学界のあらゆる場で、女性の権利擁護のために発言しました。
そして、現在のフランスは世界で最も女性科学者の多い国となりました。

彼女は後進の若い人たちにこう言ったそうです。
「あなたの希望を天の星につなげ」

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*ファラデー

エピソード 1 電磁場のファレデーの法則で有名な彼は、鍛治職人の10人兄弟の長男で、貧しさのため小学校にも行かなかった。
彼は製本業の店に丁稚奉公に出され、そこで「科学書」に興味を持ち、「商品」を熱心に読んだ。
彼の真面目な仕事ふりと科学への情熱を理解した主人が、王立研究所化学教授デービーの公開講座、通称「クリスマス・レクチャー」に彼を出席させた。
彼は、この講義内容を一字一句漏らさずノートに記録した。彼はそのノートを製本して、デービーに送り、それがもとで化学の助手として採用された。

こうして、電磁場の大天才の活動が始まりました。
・・・「天は自らを助くるものを助く」。 ただ、手をこまねいているだけでは、駄目なんだね・・・
エピソード 2 ファラデーが意外にも金の卵だったと分かった師のデービーは、フランス、イタリア等一年半の旅行にも、彼を同行させました。
ファラデーにとってこの旅行での最大の収穫は、著名な科学者たちと早くから関われたことにつきると思います。
ところで、デービー夫妻はイギリスの最上流階級に位置していましたが、ファラデーは小学校も出ていません。デービー自身は理解と寛容を持って彼に接しましたが、夫人のほうは、終始、彼を「パシリ」として扱いました。
ファラデーは、このどうにもならない階級の壁を思い知らされ、階級とは関係の無い唯一の自由世界である科学真理探究の世界への思いを高めさせたようです。

なんとも、言えない歴史の皮肉と悲哀を感じます。
エピソード 3 彼は数学がほとんどできなかったらしい。 そのため、科学現象を数式に出来ずに、図にするしかなかった。
そのおかげで、「電気」や「磁力」という目に見えないものを、「幾何学的」モデルで説明することに、彼は長けていた。

彼は数学的には未整理の多くの「イメージ」を残した。それを天才数学者マクスウェルが、その本質な重要性を見抜き、ファラデーの了解のもと、このイメージを数式化し、電磁波に関するマクスウェル方程式を導びき、電磁気学は集大成された。
見えないものをイメージする天才と、その重要性を見抜いた天才の二人がいなかったら、電磁波で出来ているこのネットワールドも変わっていたことでしょう。

いやはや、天才たちの凄さって、僕のような凡人の想像を絶するね。
エピソード 4 彼はニュートン以来の大科学者として、イギリスと世界の科学界のリーダーとなる。だが、その業績に見合う金銭や肩書を求めず、提供された地位、名誉、全て断り、一介の科学者として真理探究の道を貫いた。
ファラデーの師匠であるデービーは、生涯に7つの元素を発見したが、晩年、こうつぶやいている。
「私は科学上の発見をずいぶんしたが、生涯最大の発見は、ファラーデーを発見したことだ。」

・・・逸材を見抜くのも、一つの才能。その才能に発見されるのも、また、才能だといことでしょうか。。。
エピソード 5 彼は自分が科学界に飛び込む契機となった「クリスマス・レクチャー」を発展させ、これは今でも続く通算180回を超える伝統の行事となりました。
ファラデーが書いた「ローソクの科学」は、彼がこのレクチャーて行った講演の筆記録。この本は岩波文庫から出版されていて、僕も中学生の頃に読みましたが、さっぱり分からなかった記憶だけがあります。
ちなみに、このレクチャーは一流の業績はもとより、教育に情熱があり、教えるのがうまくないと駄目で、資格試験があるそうです。
一流の科学者に「試験」をする・・・たいしたもんです。
エピソード 6 彼は実験助手に採用されてから女王より提供された家に移るまでの46年間、王立研究所の屋根裏に住んでいました。
また、ニュートンをはじめ成功した科学者のほとんどがウェストミンスター寺院に埋葬されているのに対し、ファラデーは本人の遺言でロンドンの郊外の墓地に眠っています。

彼の人格そのもののように、目立たず、ひっそりとありますが、訪問する人は多いそうです。

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*エジソン

エピソード 1 エジソンは今で言うなら「ADHD(Attention Defict Hyperativity Disorder = 注意欠陥多動障害)だったのかもしれません。
そんな彼の才能を育てた母親は形式にこだわらず子どもの才能を引き出す術に長けていました。
彼女は「ロビンソン・クルーソ」、「ノートルダム・ド・パリ」、「グリム童話」など、古今東西の名著を与え、少年エジソンは、それをむさぼるように読んだそうです。
その中で特に彼の興味を引いたのが、パーカーの「自然実験哲学」。 エジソンはこの本に載っていた実験を片っ端から自分でやりました。

一人の母親、一冊の本との巡り会い。  どんな巡り会いが、その人に影響を与えたのかは、歴史にしか説明できない・・・。
エピソード 2 彼が列車の中で、化学実験をやっていたのは有名ですが、その後、あやまって線路を歩るき始めた駅長の二歳になる息子を接近する列車から捨て身で救出しました。 この礼として習わせてもらった電信技術で電信技士に転向。すぐに早打ち全米コンテストで優勝、全米一の電信技士となった。

天才ではなく、努力の人である証拠かな・・・。
エピソード 3 彼は発明で得た利益で、ニュージャージー州のメンロパークの広大な土地に巨大な研究所を建てた。僕が小学生の時に読んだエジソンの伝記のタイトルは「メンロパークの魔術師」・・・結構、気に入っているタイトルの一つです。

そこでの彼の最大の発明は、文句なく、電球でしょう。
この電球に使われたフィラメント(電球の中で光輝く細い線)は、京都の石清水八幡宮境内の竹林から切り出し孟宗竹。世界中から集めた材料の中で、これが一番長く光輝いたのでした。
エピソード 4 エジソンは新渡戸稲造(!)の著書「武士道」(初版は英語)を愛読したそうです。 新渡戸が渡米した歳には、エジソンに厚遇されたといいます。
京都府八幡市には「エジソン通り」というストリートがあるそうです。(前回紹介した竹の縁)
意外に日本と彼は縁があるんですね。
エピソード 5 彼が立ち上げた会社「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」は、彼の晩年には一般発明の停滞と送電事業の失敗から莫大な借金を抱え、モルガン商会の支配を受けることになります。 その時に会社名から「エジソン」の名前が削られ、彼も、会社から追われることになります。
しかし、エジソンの輝かしい不滅の業績と技術開発にかけた執念は、今や売上高1000億ドルを越える世界有数の企業となったGE(ゼネラル・エレクトリック社)に引継がれました。

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*ラボアジェ

エピソード 1 近代化学の父とよばれ、一人で化学の歴史を変えたと言われています。
質量保存の法則を発見し、その帰結として、化学反応式の概念を導入しました。・・・そんな彼ですが、大学は法科大学を卒業しています。
結構、歴史に名を残す偉人って、学生の頃は別の分野を学んでいるんですよね。 分からないものです、その人の才能というのは・・・
ダイヤモンドの燃焼実験を行い、ダイヤが炭素であることを証明したのも彼。
そんな彼の最後は「ギロチン」による刑死。波乱万丈な人生を次回から覗いてみましょう!
エピソード 2 彼が法科大学卒業後に選んだ道は「徴税請負人」・・・早い話が「取立て屋」です。
暴力を使い、国から指示された必要額の数倍を徴集し、上乗せ分を手数料としてピンはねする・・・といういつもながらの図式が当時もありました。
32歳のときには、母親の遺産の一部でその「徴税組合」の投資し、幹部の一人となりました。
徴税組合から入る年間10万フランという収入が、実験道具や薬品の購入にあてられていたようです。
・・・なんとも、言えない、歴史の悲劇を感じます。
エピソード 3 彼の多くの業績の中で最大のものは、化学反応における「質量保存の法則」の発見です。
当時の化学は錬金術色の濃いもので、化学者は定性的に、反応後に「何ができたか」にしか注目していませんでした。
また、無から物質が生じたり、物質がいきなり消滅したりということを平気で考えていました。(^_^;)
そんな中で、彼はそんなはずは無いととの信念で、反応生成物以外の「余り」に着目しました。
この「着目」が彼の天才です。 誰も思いもつかないことに着目する・・・一歩間違えると、変人扱いです^^
エピソード 4 このフランスの化学者は、生涯の研究において、ほとんど失敗が無かったと言われています。
アインシュタインや、ニュートンですら、大きな成功もありましたが、失敗もかなりのものです。
ラボアジェは、燃焼理論、比熱理論、質量保存の法則と、まるで、初めから「問題の答え」が分かっているようだと形容されます。
こんな天才は、他にはドイツの数学者「ガウス」くらいでしょうか。
こういした天才が、出現するというのは、偶然? それとも、歴史上の転換点には、誰かが派遣してくれるのでしょうか?^^;
エピソード 5 彼は孤高の化学者でした。クールで、頭が切れ、誰よりも前を行っていた彼には共同研究者ができなかったようです。
そんな彼を助けたのが、14歳年下の有能な奥さん。
この奥さんは、誰からも嫌われていた徴税組合長の娘でしたが、驚くほど才能に恵まれていたそうです。
旦那のブルトーザーのような精力的な研究を全て支えて、特に、化学実験の様子を描いたスケッチは、素晴らしく、今日でも写真代わりに彼の実験を理解、再現できるほどです。
この絵をもとに、ラボアジェは「化学綱要」を出版しました。これは物理学におけるニュートンの「プリンキピア」に比肩する、歴史的な化学の教科書となりました。
エピソード 6 1789年、フランス革命の中、ラボアジェは歴史の波に飲まれていきます。
国家犯罪人として真っ先にやり玉にあがったのが、「徴税請負人」。・・・わかるような気がします。彼の逮捕に熱心だったのが、かつて彼により科学アカデミー入会を阻止された元医師のマラー。マラーはラボアジェを微罪で逮捕して、裁判で執拗に断罪し、死刑判決に追い込みます。
判決が下る前、ラボアジェは弁護士無しで、理路整然と自己弁明しますが、残念ながら、聞き入れられず却下。
あれだけの業績を上げた科学者でありながら、フランス学士院も、彼の助命嘆願無し。・・・偉大な仕事への嫉妬でしょうか? 自分たちの保身かも。。。

1794年5月8日午後、彼はギロチン台の露と消えました。 この死刑を見ていた数学者ラグランジュはこう嘆きました。
「彼の首をはねるのに一秒とかからないが、彼の首をつくるのに100年かかる。」

(因みに「ギロチン」って、発明した医師の名前。「苦しめずに一気に死刑をすべきだ」という倫理的な発明だったそうです。)

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*ダーウィン

エピソード 1 ダーウィンは海軍の測量船ビーグル号で5年間の航海に出ます。船はガラパゴス等を周って戻ってきますが、その間、彼は様々な生物の観察を通して、進化について考察します。帰国後、彼は全17冊という大作の計画を立て、マイペースで研究をまとめ始めます。彼が執筆を初めて22年後(!)、若く優秀なウォーレスという科学者が彼に自分の論文の草稿を送ってきて、意見を求めます。
ウォーレスも調査航海を4年間行い、その結果を2日間(!)でまとめたものでした。それはダーウィンのアイディアとほとんど同じでした。
焦ったダーウィンは、一気に、自分のアイディアを出版していきます。進化論のエッセンス「種の起源」もこうして生まれました。

ウォーレスがいなければ、ダーウィンの著作も未完に終わり、ただのおじさんだったかもしれません。
エピソード 2 彼は有名なビーグル号の航海のあと、何をしたかというと・・・定職につかず、家でブラブラしていました。
彼の父は医者で資産家。まぁ、金持ちで暇を持て余した博物学の趣味人としか思われていませんでした。ちなみに彼の母親は、陶芸家ウェッジウッドの娘だそうです。(*_*)
ダーウィンは2キロメートル四方の広大な自宅庭園を、規則正しく一定時間で散歩する日課をこなしながら、進化論の原稿を書いたり、航海で得た資料の整理をしたりと、優雅な生活を送っていました。

金持ちの趣味人が、いつのまにか、生物学の一流学者へ。・・・富めるものは、ますます富む?
エピソード 3 彼の父親は、最初ダーウィンを法律家にしようとしたようですが、興味を示さないため、自分と同じ医者にしようとしました。
しかし、彼は血が苦手。では、と今度は聖職者にしようとしましたが、彼は神学や古典に興味もありません。
結局、「博物学」に興味を持った彼は、博物学者として自立することを、「彼自身」が決めます。

当然のようですが、一番興味のあることを、自分自身の決意で極めていくのが一番です。興味の無いことを職業にしてしまう不幸な人が多すぎます。
エピソード 4 彼が40年間過ごした広大な邸宅がダーウィン博物館になっています。ロンドンから電車で30分のブロムレイサウスで下車します。
彼の集めた膨大な資料、文献、ビーグル号航海の記録、草稿類が生前のまま保存されていて人気があるそうです。
進化論の生まれた背景に、これら膨大な資料の存在があったことが良くわかります。
エピソード 5 進化論ばかりが話題になりますが、彼の研究は「珊瑚礁のでき方」、「火山島の地質観察」、「植物の運動力」など、たくさんの研究をダーウィンはやっています。
当初、これらは進化論も含めて全17巻の大作になるはずでした。もし、17巻の中の一部に自然選択の原理を説く進化論の主要部が埋まっていたら、日の目を見なかった可能性が高いでしょうね。

研究の発表方法も考えないといけないというわけです




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*ジュール

エピソード 1 ジュールの法則(電流に伴う発熱の関係)で有名なジュールは、子どもの頃、対人恐怖症気味の性格で、登校拒否をしていました。
そこで恵まれた資産を背景に、家庭教師により基礎学力をつけたようです。
彼が十代後半の頃、「ドルトン」が家庭教師に来ました。原子論の創設者のドルトンです。

ドルトンが、自然科学の精神を少年に語り、彼を感動させ科学者への道を決意させたことは想像に難くないですね。

しかし・・・ドルトンが家庭教師とは・・・^^;
エピソード 2 彼は自分の研究のテーマを決めるときに、「何をやれば学会で有名になれるか?」を考えました。
当時、最もホッとな話題は「1カロリーの熱がどの位の仕事に相当するか」でした。これは、エネルギー保存の法則を完成させるためも、絶対に必要な研究です。
世界の科学者がこの研究にしのぎを削っていたはずです。しかし、この仕事の困難さは、誰もが認めるもので、実験をするにしても一生がかりになる可能性があります。きっと、熾烈な競争をくりひろげる科学者の中には、怖気づく人も多かったでしょう。

明らかに目標が分かっているとき、やるかやらないかは当人の判断です。
たぶん、この目標を「やる」と判断した科学者はジュール以外にもたくさんいたことでしょ。しかし、彼らは歴史に名前を残していません。

「やる」と決断することも難しいですが、「やって成功する」ことはもっと難しい。
そのためには、たぐいまれな集中力、持続力、遂行能力、されに「運」も必要です。
エピソード 3 彼は36年かけて「熱の仕事当量」を決定しました。
この結果を彼は学会に報告しましたが、当時は無名のジュールでしたので、なんの反応もありませんでした。
静まりかえる会場で、ただ一人の科学者が彼に質問をして、その実験の正確さを確かめ、最大の賛辞を送りました。その科学者はケルビン。ケルビンの評価を受けて、初めて、ジュールの研究が認められました。

天才の仕事は、天才にしか理解できない、、、こともあるんでしょうね。
エピソード 4 ジュールの新婚旅行へ行った時の逸話が残っています。 マンチェスター近郊の行楽地に二人は新婚旅行に行きました。そこには美しい大きな滝があり、すばらしい景観を呈していました。
しかし、若き夫ジュールの腕には信じがたいものが……。 1メートルもある彼自慢の長大温度計です。^^;
滝を見るなり彼は「攪拌によって温度上昇があるかないか」を確かめようと、滝の上下で温度測定を始めました。呆然とする花嫁……。
いろんな新婚旅行があるものです。(笑)
エピソード 5 ロンドン科学博物館に、ジュールが熱の仕事当量を決定した水攪拌実験装置が展示されています。
この装置は教科書でよく見かける装置なのですが、どうやら内部構造が、教科書には間違って載っているようです。
明治維新から100年以上に渡って誤りが積み重なり、日本の教科書の大半は、ジュールの歴史的な実験装置の誤った図を載せていることになります。
「実害は出ておりません」から、いいか・・・?^^;

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*メンデル

エピソード 1 実験結果を数学的に統計処理する手法を初めて用いたメンデル。特に当時の生物学者は、形態学や分類学に終始し、現象を記述すれば生物学者として仕事は終わりで、その背後にある自然の摂理の解明など、まったく感心がありませんでした。
時々、このような門外漢が、素晴らしい発見をするということが、科学の世界ではありますね。
もちろん、得意技を持っていないと、異分野に行ったからと言って、無条件で成功するわけではありませんが・・・
エピソード 2 メンデルは、ダーウィンの進化論を確かめる道具として「エンドウ」を選びました。でも、絶対にエンドウでないといけないという必然性はありませんでした。
はっきり言って、彼はエンドウそのものを生物的に詳しく研究しようという気はさらさら無かったのです。
彼は、8年間、225回に及ぶ単調な交配実験で12,980個の雑種を作り、その膨大な統計処理を続けました。気の遠くなるような「筆算」も……。
キュリー夫妻も8年かけてラジウムを抽出しています。……目標を追い詰める執念。 科学は一種の狂気を必要とする分野なのかもしれません。
エピソード 3 メンデルの仕事を詳細に調べると、もちろん当時のことですから、科学的ではない乱暴なところもあります。
しかし、ごちゃごちゃした自然現象の中から真理を選びとれること、これは“天才”のなせる技かもしれません。科学的真理(法則)は、雑多な現象のうしろに見え隠れしています。それを的確につかみとれる審美眼。当時の生物学者には無かった数学的能力のなせる天才的直感が、彼には備わっていたのでしょう。
エピソード 4 メンデルの歴史的論文「植物雑種の研究」は、発表から34年経ってから再発見されました。
論文発表の34年後、1900年のとある学会で、オランダ、ドイツ、オーストラリアの3人の科学者が、偶然、お互いがこの論文に着目していたことを知り、驚きます。
彼らも実は、ダーウィンの進化論を裏付ける遺伝の法則性を証明する先陣争いをしていたのでした。
ところが、彼らよりも30年以上前に、すでにメンデルによって完成されていたことを知り、また、彼らにも難解な統計処理によって、みごとに遺伝の法則を導いていることに驚愕します。
論文発表当時は、誰も、メンデルによって書かれた論文の意義の重要性が理解できなかったのです。早すぎる天才の悲劇って本当に有るんですね。
エピソード 5 オーストリアが産んだ稀代の天才、メンデル。彼が所属したブリュンの聖トマス修道院の中庭は、遺伝の法則を生んだ歴史的名所として、修道院とともに今日も保存されています。(わずか20坪ほどの猫の額で、歴史的偉業が成された)
修道院は「メンデル博物館」となり、メンデルの資料や、遺伝法則を説明する展示があります。

もう、これからは「修道院」や「特許事務所」から歴史を揺るがす発見は生まれないのでしょうか?


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*ワット

エピソード 1 蒸気機関を改良して、産業革命を根底から支えたワット。彼は「発明者」ではなく「改良者」です。
しかし、その改良が無かったら、今のこの世界が訪れるのは数百年は遅くなったかも。そんな改良だったからこそ、蒸気機関と言えばワットとなりました。
ちなみに、彼はグラスゴー大学の工場付装置製造職人として働いていた時に、この改良を手がけます。
う〜ん、今回のノーベル化学賞の田中さんみたいに、「先生」ではなく、技術者だったんですね。
エピソード 2 蒸気機関の改良を改良すべく日夜思いをめぐらせていたワット。なかなか良いアイデアが浮かばず、行き詰まりを感じていました。
そんなある日の午後、公園を散歩していた彼は池の水が排水溝に吸い込まれていく場面に出くわし、蒸気機関改良のアイディアを思いつきます。

池の水が排水溝に吸い込まれる、これは誰もがよく見かけること。それが問題解決の糸口になるかどうかは、それを見た人の中に有る「思い」によるんですね。
エピソード 3 ワットが改良する前の蒸気機関は炭鉱の排水に使われていましたが、効率が悪く、採掘した石炭の売上の40%にも及ぶコストがかかっていました。
ワットが改良した蒸気機関は、効率が良く、また、炭鉱だけでなく、町中の紡績工場でも使えるようになっていました。
それまでの紡績工場の動力は1000年以上(!)も定番の水車でした。
彼によって万能の動力源に高められた蒸気機関は、産業革命の文字通りの「原動力」になったわけです。
エピソード 4 ワットはスコットランドの造船の街グリーノックの船大工の子として生まれました。彼は過去の偉大な実験家と同様、子どもの頃から探究心旺盛で、なんでも自分で確かめないと気のすまない性格。
ある日、彼は台所のコンロの上のやかんの穴をふさぎ、さらにひもでふたを縛って密閉して、蒸気の力を調べる実験(?)をしました。今なら「テレビの前の良い子のみなさんは、絶対真似しないでください」というやつですね。^^
ワット少年の見守る中、土びんは大音響をあげて粉々になりました。驚いたには母親です。しかしこの母親も、過去の偉人の背後に必ず存在する偉大な母親でした。このとき、もし、二度とこんなことはやらないと思うくらい「悪い子」のワットを叱っていたら、今の世界は100年は遅れていたでしょう。
エピソード 5 ワットは大学の付属工場に勤めていました。ここで働く職工の使命は、教授の示した実験道具を指示通りに、忠実に作ることでした。
しかし、ワットは、その原理に納得してから初めて製作に取り掛かるようにしていました。ただし、出来上がりは最高。
そんな調子なので、納得のいかない道具は指示通りに作らないこともありました。そうなると怒るのは教授です。でも、彼の実力と識見に脱帽して、最後は彼の意見を取り入れて装置を改良するのでした。まさに、職人気質のワットなのでした。
エピソード 6 功なり名を遂げたワットでしたが、やがて彼を追い抜く若者が出てきました。その名は若きトレビシックでした。鉱山機械技師の息子だった彼はワットの蒸気機関の特徴と限界を熟知していました。トレシビックのアイディアの素晴らしさに恐怖すら感じたワットは、彼に嫉妬しました。ワットは様々な方法でトレシビックを追い詰めます。(その結果は次回へ)
ちなみにトレシビックは、史上初の蒸気自動車とSLを走らせることに成功した人です。
エピソード 7 若くて優秀なトレシビックに嫉妬したワットは、執拗に彼に嫌がらせをします。特許侵害で訴訟を起こしたり、「殺すぞ」と脅迫状を送ったり・・・・・・。
トレシビックは精神を病み、南米に渡ります。SLで有名なスチーブンソンの長男がたまたま南米で物乞い同然になった彼を発見し、イギリスへ帰国させてあげます。スチーブンソンが有名なレインヒル競争で勝利を収め、イギリスにSL時代が到来しますが、そのSLそのものを発明したトレシビックは、ひっそりとその4年後に死去します。。。
旧技術は新技術に発展解消するのではなく、旧技術のまま朽ち果てていきますが、過酷な人間社会も同じなのでしょうか・・・


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*パスツール

エピソード 1 白鳥の首形フラスコを使って微生物の自然発生説を否定。発酵の原因を、それまでの神秘主義ではなく、科学的な因果関係で説明することに成功。ここから病気の原因を病原菌に求める細菌学が発達、近代医学へつながる。
狂犬病ワクチンをはじめ、抗原抗体反応を利用したワクチン療法でも大きな成果をあげた。
また、昨年のノーベル化学賞を受賞した野依先生の研究のもとでもある「光学異性体」(化合物の右手と左手の関係)の発見者でもある。
エピソード 2 パスツールが幼少より才気煥発の天才少年だったという逸話はない。彼はスイス国境の皮なめし職人の子どもとしてのんびりと育った。唯一才能を発揮したのは絵画だった。彼の描いた母親のデッサンで、彼女と初めて会う人が人ごみの中でわけなく彼女を見つけだすことができたという。
著名な科学者の中には、絵画や音楽の達人が意外と多い。
湯川秀樹の書道は名人クラス。アインシュタインのバイオリンはプロ並み。ベンゼン環の六角構造を発見したケクレはもともと建築学専攻。 科学は時に「独創的なイメージ」が重要な役割を果たします。美的・芸術的センスと科学的才能は相関するのかもしれませんね。
エピソード 3 34歳の時、ブドウ酒の加熱殺菌法を開発。41歳でブドウ酒腐敗菌発見。
46歳で脳出血で半身不随に。
55歳の時に、あの「炭疽菌」と鶏コレラ菌を発見。58歳、予防接種法を開発。63歳で狂犬病ワクチン接種に成功。
パスツール……人呼んで「微生物の狩人」

晩年、彼の名を冠したパスツール研究所が設立され、その落成式で語った次の言葉が有名だ。
「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」
エピソード 4 パスツールは、微生物の自然発生説を覆す実験を行ったことで有名。その実験は1860年に行われた。たかだか140年前には、そんな説が主流だったことも驚きだ。何故、彼は自信を持って、自然発生説を否定できたのか? それは、彼が本来、生物学者ではなく、物質の反応に明るい化学者で、物理にも強い理論的な人間だったからだろう。化学では結果があれば必ず原因がある。何かが自然に発生するようなことはない。
逆に理論的でないことも、人々は信じやすいということでもあるわけですね。常識を疑う「非常識」な考えができるかどうか・・・
エピソード 5 パスツールは狂犬病ワクチンの発明で有名です。当時(19世紀後半)は、犬に噛まれると災いが乗り移り、体の中身が変わると考えられてました。パスツールが凄いのは、まだ狂犬病の原因ウイルスが特定できていないにもかかわらず、ワクチンを作ってしまったことです。狂犬病ウイルスを見ることができるようになったのは1932年、電子顕微鏡が発明されてから。
彼は容疑者不明のまま、治療法を開発したのでした。一体、どのような発想をしたのでしょう?
エピソード 6 ウイルスの特定をしないまま狂犬病のワクチンを作ったパスツール。一方で、病原体の発見を第一とする研究手法を最後まで信じて、病に倒れた野口英世。この二人の差は何だろう?
科学で大切なのは、個々の事実より科学的手法や思考方法だ。この科学研究手法の違いが日本と西洋と違う。原因があれば結果があるという因果関係に重点をおき、病原体が見えていようがいまいが、手法そのものは変わらないとの確信のもと、ウイルスによう免疫学を確立したパスツール。 自己を信じる揺ぎ無い自信も日本人には必要だと思います。


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*ライト兄弟

エピソード 1 兄ウィルバー、弟オービルの4歳違いの兄弟。協力して自転車製造販売営業を営むかたわら、航空に興味をもち、グライダーをベースに動力飛行機の開発に着手。1903年12月17日、ノースカロライナ州キティホークで、「フライヤー1号機」が人類初の有人動力飛行に成功。
飛行距離は36メートルであった。

自転車屋さんの興味が高じて、アポロまで行ってしまうんですね。
エピソード 2 飛行機の発明についてはライト兄弟の他にスミソニアン研究所の教授ラングレーや機関銃の発明者であるマキシムという人たちが凌ぎを削っていた。
ライト兄弟とその他の人たちの違いは、「本体」の研究からいくか「動力機」の研究からいくかだった。ライト兄弟はグライダーを研究していく道を選択したのです。
ライト兄弟は当時の天才グライダー飛行士リリエンタールが書いた「飛行術の基礎としての鳥の飛翔について」という本を読み、感動し(!!)、真に動力で跳べる飛行機の発明を生涯の目的と定めます。レオナルド・ダ・ビンチ以来の人類の夢、大空を自由に飛びまわる夢を実現することを決意したのでした。
エピソード 3 1903年12月17日午前10時。弟オービルが乗った「フライヤー1号機」は、ノースカロライナ州キティホークの海岸を飛び立ち、時間にして12秒、距離にして36メートルを飛んだ。
その5年後には、2時間20分、145キロメートルまで飛行距離を伸ばしました。
この偉大なる成功にはいたるところに彼らの本来の自転車の技術が生かされています。例えば、機体のフレーム構造は、自転車にはおなじみの構造で、自転車での経験が生かされ、離着陸用に自転車の車輪をとりつけたりしました。
エピソード 4 ライト兄弟による飛行機としての最大の発明は「翼のねじれとたわみ」であった。「たわみ」は翼をしなやかに作り、これにより空気に対する抵抗性を柔らかくし、安定化させる。
翼の「ねじれ」とは、飛行機が旋回する時に発生する乱気流から機体を安定にするための技術を指す。
ライト兄弟は、寝そべって乗る操縦士の腰の左右の動きで主翼をねじれさせ、安定した飛行を手に入れた。
他の技術者が作った飛行機は旋回ができずに、一度機体が傾くと、そのまま墜落してしまう。
この「ねじれ翼」はライト兄弟の最高企業秘密だったそうです。
エピソード 5 自転車屋のライト兄弟に飛行機に関する文献を教えてあげたのは、スミソニアン研究所のラングレーだった。ラングレーは「学の無いやつらに動力飛行などできるはずがない」とたかをくくって、啓蒙のつもりで親切に航空工学に関することをいろいろと教えてやった。それが結果的には、一介の自転車屋の兄弟に完全に負かされてしまう形となった。
技術の創成期には、得てしてこういうことが起こりえるようです。理論よりも、すぐれた職人のアイディアが勝る、それは今でも時々見ることができますね。
エピソード 6 1903年フライヤー1号機がキティホークで人類初の動力飛行(36メートル)に成功。この36メートルは現在のジャンボジェット機の全長よりも短い!1908年ライトA型で145キロの飛行に成功。1912年、兄ウィルバーが腸チフスで45歳で他界。弟オービルは76歳まで長寿をまっとうした。アメリカ政府が兄弟の功績を認めたのは、弟も亡くなった1948年以降。
現在、ライト兄弟の「フライヤー1号」を復元しようというマニアがあとを絶たない。しかし、グライダー訓練を積んでない彼らには、36メートルすら難しい。やはりこの機は、兄弟の「天才」を必要としたようです。


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*メンデレーエフ

エピソード 1 原子量の大きさの順に並べた元素の性質が周期的に変化する周期律を発見。
化学、物理の分野での仕事のほかに、油田の開発や技術百科事典の刊行など、科学行政にも手腕を発揮。晩年は「単位」の改善に尽力した。
ロシア生まれのメンデレーエフは、朝のコーヒーから昼食までの間に「周期表」を作り上げてしまいました。
エピソード 2 1869年2月17日の朝、メンデレーエフが起き抜けのコーヒーを楽しんでいると、一枚のハガキが配達されてきた。差出人は古くからの研究上の友人メンシュトキンだった。「三つ組元素をどう思う?」ハガキにはこう書かれていた。
「三つ組元素」とは、ドイツのデーべライナーが1800年代前半に見つけた、互いに化学的性質の似た三つの元素のグループのこと。この問いにかけに彼はひらめきを感じ、書斎へ直行。この時、彼はハガキの上にコーヒーカップを置いたらしく、丸いシミのついたハガキが博物館に残っている。
彼は熱中して仕事をし、昼食までに最初の周期表の下書きを完成させた。「世紀の天才のひらめき」の数時間だったわけです。
エピソード 3 メンデレーエフが弱冠35の時に発見した「周期律」。彼はいとも簡単にこの表を完成したかのように思われるが、実はそこには彼の柔軟な発想が隠されていた。
当時知られていた63個の元素からなる連続は「三つ組元素」を無理に固定すると、ある空欄が出来てしまう。逆に言うと、それまではそのような空欄を許さなかったために「三つ組元素」が縦位置でずれてしまった。メンデレーエフの凄いところは、空欄の部分には、まだ発見されていない未知の元素があるはずだとして、その未知元素の原子量まで予測してしまったところだ。
彼が予測した未知元素は、彼の存命中に発見され、はじめは意義が疑われていた周期表の価値とメンデレーエフの名は、急速に国際的に認知されるようになった。
エピソード 4 近代科学成立の過程でのメンデレーエフの周期表の重要性は、残念ながらあまり認識されていない。物理学で1910年代から30年代にかけてノーベル賞受賞者が次々と誕生した原子構造研究は、まったく彼の周期表の提出をきっかけとしているのである。
原子構造は全ての物質理論の基本であるから、メンデレーエフの仕事の重要性は、アインシュタインの相対性理論に匹敵するほどのものである。それほどの彼の仕事に対して、ノーベル賞が授与されなかったのは、まったく不当というしかない。
1906年度のノーベル化学賞の選考会で、彼は1票差でフランスのモアッサンに敗れた。モアッサンの受賞理由は「電気炉の発明」……。まったくいろんな意味でノーベル賞を取るのは難しい。
エピソード 5 メンデレーエフは14人兄弟の末っ子として生まれた。父は高校の校長先生。母はガラス工場を経営する女傑。兄弟の中で知的能力が抜きん出ていて、父母は彼の能力を伸ばそうと努力し、幼少時は、「シベリア流刑の政治犯科学者」からヨーロッパ最新の科学の初歩を教わった。
成人してからはヨーロッパに留学。この留学中にあった国際化学者会議で、彼は当時の世界の化学界が最も必要としているのが、周期表の作成であることを認識した。「テーマ探し」は上昇志向を持つ科学者にとって最初の重要な仕事。ロシアに戻ってからは、周期表の作成の一番乗りに熱中し、それを成し遂げた。
エピソード 6 ヨーロッパから後れをとったロシア化学界をほとんど一人で牽引し、研究の近代化に尽力したメンデレーエフは、1890年、突然ペテルブルク大学を免職された。理由は奨学金の増額を要求する左翼学生運動を支持したためである。彼が左翼学生を支持した理由は、シベリアに育った子ども時代に求めることができる。彼の祖父は、シベリア初の新聞社を興した言論人で自由の徒だった。さらに幼少時代、シベリアに流された科学者から科学教育の手ほどきを受けた体験から、政治犯への同情と共感の思いが底流にあったと思われる。
1955年に発見された原子番号101の新元素は、不朽の業績を残しながらノーベル賞を受賞できなかった彼をたたえて「メンデレビウム」と名づけられた。


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*ガリレオ

エピソード 1 近代科学の創始者。個々の業績以上に、自然世界が数学で表せることを初めて示したことが最大の業績といえる。
ところで、有名な「ピサの斜塔」での落下実験が本当に有ったかどうかは、かなり怪しい。この公開実験が本当にあったとすると、それは「政治的」にかなり危ない実験だった。ローマ教会が古代より中心教義としてきたのは、アリストテレスの自然学である。ピサの斜塔の公開実験はアリストテレスの完全否定であり、それはローマ教会の面子を完全につぶすものだった。
実はガリレイは「世渡り上手」であり、政治権力にとり入って出世を続けてきた。ある意味でガリレイは「大人の常識」を持ち、「学問」と「政治」を分けて考えていた。そんな彼が政治的には無謀としかいえない公開実験をするはずがない。
エピソード 2 ガリレイの名前は「振り子の等時性」の発見者としても知られている。彼がまだ弱冠19歳の時、授業の一環としてピサの寺院での礼拝に参加していた時に発見した。礼拝をたいくつに感じた彼は、大聖堂のシャンデリアが風によって、あるときは大きく、あるときは小さく揺れるのを見た。ところがシャンデリアが大きく揺れても小さく揺れても往復時間に差がないことを、自分の脈拍を時計代わりにして、測定した。これが振り子の等時性の発見に繋がる。
シャンデリアの揺れはそれまで何百万人もの人が目にした光景。そこからこのようなヒラメキを持てる人間が何人いることだろう。それにしても、退屈な授業も捨てたもんじゃない。^^
エピソード 3 科学研究にとって本質的に重要なのは既成事実をまず疑うという、業績批判の態度と手法。ガリレイがピサ大学に赴任したころの中世の大学は、既成事実の受け売りに終始していた。講義は古い理論の繰り返し、教授はろくに勉強もしない。
そこに乗り込んだのが、「ケンカ屋」ガリレイである。彼は若い頃から、歯に衣着せぬ辛らつな批判を公衆の面前で展開し、「毒舌」の才能と「度胸」に恵まれていた。ピサ大学に乗り込んだガリレイは、およそあらゆる既成常識、既成理論を疑った。その最たるものが、教会はもとより、大学教授さえ誰一人疑っていなかったアリストテレスの落下理論の批判だ。
イノベーションが起こる時には、既成概念を打ち破る「ケンカ屋」も必要です。
エピソード 4 「天文対話」「新科学対話」は、ガリレイの「論争による真理探究」、今でいう「ディベート」見本集のような名著だ。「天文対話」ではつぎのようなA、B、Cの三人で行われる対話形式になっている。
A:プトレマイオスを信じる人、B:コペルニクスを信じる人、C:ものわかりのよい素人
AとBが対決しながらCに説明する形式だが、Bのやり方は、とにかくAにしゃべらせて、その矛盾を鋭く突き、まだどんどんしゃべらせるうちに自己矛盾に陥らせるというやり方だ。 今でも、この手は使えます^^
エピソード 5 ガリレイと言えば、宗教裁判ですが、彼に対する宗教弾圧は熾烈をきわめ、300年以上におよび亡骸さえも行方不明でした。彼の墓碑がフィレンツェのサンタクローチェ教会にあわれたのが1960年代。ガリレイ復権、すなわちローマ教会との和解が最終的に完了したのは、つい最近です。1989年、ヨハネ・パウロ二世が「ガリレイを宗教裁判にかけたのは間違い」と発言し、1992年10月、正式にガリレイの破門を解き、名誉回復宣言されました。
エピソード 6 1615年、ガリレイは反ガリレイ派の中心人物ロリーニによって地動説のことで宗教裁判所に告発され、翌年、彼の地動説関連の著作が全て禁書となります。ガリレイはこの後7年間沈黙しますが、1623年に『偽金鑑識官』という宗教関係者の無知を公然と批判する著作を出版し、再び教会の反発を買います。さらに1632年には『天文対話』を出版し、2回目の宗教裁判となります。
その後彼はフィレンチェ郊外の自宅に幽閉に身になりますが、1638年、密かに大作『新科学対話』を完成させ、オランダで出版されますが、即禁書となります。
見事な反骨精神というしかありません。


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*ガウス

エピソード 1 数学、天文学、物理学とあらゆる分野で活躍した天才。幼少より神童ぶりを発揮した。小学校3年生の時に「1から100までの数を全て足すと、いくつか」という問題に対して、彼は瞬時に答えを出した。驚いた先生が解き方を質問すると「1と100を足すと101、2と99を足しても101.だから101を50個足すと5050」と明快に答えた。その先生は、もうガウス少年には教えることがないと悟り、高校生の使う数学書をとり寄せて与えた。
エピソード 2 幼少より神童ぶりを発揮したガウスの最初の学問的業績は、弱冠18歳、まだ高校生のときの「最小二乗法」の発見。
これは科学の実験結果の解析には欠かせない方法だ。
たいていの実験結果は誤差を含み、グラフにプロットした点はばらつく。しかし、背後に真理があるとするならば、それはグラフ上、直線や曲線で示されるはずである。その線引きは、「勘」でやられていた。それを数学的に見つける方法が「最小二乗法」。
現代科学の基本中の基本ともいうべき法則を高校生で発見したガウス。
僕が高校生のときは……
エピソード 3 大学に入学したガウスは、大学1年生のときに早くも次の発見をする。
正十七角形の作図法である。ギリシャの昔から正三角形、正五角形の作図法は知られていたが、七、十一、十三、十七など素数個の辺を持つ正多角形の作図は不可能と信じられていた。そして、じつに2000年の時を経て、わずか19歳の少年が正十七角形の作図に成功したのである。
そのうえ、定規とコンパスだけで正n角形が作図できるかどうかの一般法則まで打ち立ててしまった。やれやれ・・・
エピソード 4 ある公爵から、その才能に与えられた年金を貰っていたガウスは大学卒業後、定職に就かず、自宅で研究生活を続けた。1801年、イタリアの天文学者ピアッティは、火星と木星のあいだに浮遊する小惑星ケレスを発見したが、これを見失う。これを知ったガウスは、18歳の時に自分が発見した最小二乗法を応用、改良して惑星起動計算法をあみ出し、小惑星の位置を全世界の天文台に対して予測。そして予測どおりケレスが再発見される。これがのちにガウスを救うことになります。その話は次回へ。
エピソード 5 小惑星「ケレス」の位置を予測し、見事、ガウスの予測どおり惑星が見つかったことにより、若い在野の数学者は、すっかり世界的に有名になった。1806年、援助者であるブラウンシュバイク公がナポレオン戦争に敗れて死去し、突然の困窮生活を強いられる。これを配慮したロシアからロシア天文台長へ、ゲッチンゲン大学からも付属の天文台長への招きがあり、1809年、ゲッチンゲン大学天文台長となる。
就任時に評価された彼の業績が、ケレスの起動計算とその再発見であったことはいうまでもない。
エピソード 6 ガウスは、ドイツの片田舎の貧しいレンガ職人の家に生まれた。父は荒くれ者だったらしいが、母は聡明で96歳まで天寿をまっとうした。ガウスの兄は凡庸で、ガウスの子も学者としては大成していない。その意味では一代限りの天才だった。
ガウスは多くの天才にありがちな波乱万丈とは程遠い穏やかで充実した一生を送った。60歳からは、ロシア語の勉強を始め、晩年には心霊術にこったという話もある。彼の死後、ゲッチンゲン大学に建てられたガウスの銅像の台座は「正十七角形」になっている。


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*ゲーテル

エピソード 1 クルト・ゲーデルを語る場合、「不完全性定理」を抜きに語れない。まるで哲学のような(或いは哲学そのもの)数学の定理だ。この第一定理は「人間の理性の限界」を示し、第二定理は「理性の徹底的な相対化」を示している。これらは諸学問の根本を支える数学の絶対性を否定するもので、世に与えた衝撃は大きい。
結局ところ、宇宙で絶対的と思える「数学」と言えどもしょせん不完全な「人間」の知性の産物なのだ。この定理のアイディアをゲーデルは24歳のときにまとめた。彼は古典数学の大家ヒルベルトの講演で、「私の数学は絶対である。これをもって数学は全て終った。新しい試みをする者はバカである」という増長しきった傲慢な言葉を聞いて、不完全性定理のアイディアが閃いたという。思わぬところから、世紀のアイディアは生まれるものだ。
エピソード 2 アインシュタインの非ニュートン物理学は、同じく非古典数学を研究するゲーデルの注目するところとなった。
アインシュタインの一般相対論を研究したゲーデルは、1949年に「宇宙論」を提出。アインシュタインは認めなかった奇抜なタイムトリップ(光速ロケットを使えば宇宙旅行では年をとらない)を提唱して話題を集めた。
エピソード 3 ゲーデルの不完全性定理証明の偉業は、ウィーン大学を抜きに語ることはできない。彼はもともとウィーン大学の物理学科に入学したのだが、2年生のときにフルトベングラーの数学講義に感銘して、数学科に転じた。フルトベングラーは、講義の中で、古典数学を改変し、新数学を開拓する意義を熱心に説いたという。一人の教師の熱意が数学の歴史を変える天才を生んだとも言える。
エピソード 4 ゲーデルは生涯を通じて強迫神経症、所謂極度の被害妄想に悩まされた。不完全性定理証明後、ノイマンに招かれアメリカのプリンストン研究所を何回も訪れる。その時は強迫神経症も多少良くなったが、ヨーロッパに戻ると最悪となった。そこで34歳でアメリカに永住することを決意。その間、ゲーデルは病気に悩まされながらも次々の大論文を発表。
病気がさらに悪化したのは1946年、40歳のとき。さらに1970年代に入ってますます衰弱し、自分が毒殺されるという妄想から食事もろくに取らなかった。1977年に入院するが、食事にまったく手をつけず、ついに栄養失調で餓死する・・・・・・。ゲーデルは死して革新的理論を残したのである。


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*ボルツマン

エピソード 1 今日の「統計力学」は、ボルツマンの当時、主に気体を対象としていたため「気体分子運動論」と呼ばれたいた。気体が示す様々な性質を、気体を構成する分子の運動によって説明するのが気体分子運動論だ。この運動論の立場から、ボルツマンはウィーン大学在学中(20歳の時)に重要な論文を2つ書いている。
これらの論文は、熱が関与する現象は全て不可逆変化であり、熱は高温の物体から低温の物体にのみ移動することや、気体の仕事は圧力と体積変化の積で表されることを示したもので、現在、高校の教科書には必ず載っている基本中の基本だ。
エピソード 2 気体分子運動論に関して次々と業績をあげていくボルツマンだが、驚くべきことに、実は当時はまだ原子や分子の存在が確認されていたわけではなかった。たしかにドルトンやアボガドロによって1800年代初頭に原子論、分子論が唱えられたが、それらは化学反応でそう考えればつじつまが合うという作業仮説にすぎなかった。
つまり、ボルツマンは、まだ未確立の原子論の上に立ち、気体分子の存在をひたすら信じて、その力学モデル的展開を推し進めたということになる。
エピソード 3 ボルツマンは原子論者であった。当時、この原子論者と真っ向から対立していがのが、エネルギー論者たちである。一つの仮説にすぎない原子を物理現象の説明に用いるべきでなく、唯一誰もが認めるエネルギーで全ての物理現象を考えるべきだというものであった。
エネルギー論者のオストワルトは、学会で原子論を前提にした発表をするものがいると、揚げ足とりに徹し、最後はいつも皮肉たっぷりにこう質問した。「・・・・・・で、あなたはその原子を見たのですか?」
このオストワルトの態度を非難することが我々にできるだろうか?
エピソード 4 論的オストワルトは、ボルツマンを評してこう言った。「この世の中の異邦人」・・・よく言えば、無邪気、別の言い方をすれば、子どものまま大人になってしまった気分屋。これがボルツマンに対する周囲の一致した見方だった。またボルツマンは生涯に何度も勤務する大学を変わっている。その転職の理由は人間関係。ちょっと嫌な奴がいるとあっさり転職してしまう。一面、自分の感情に素直な天才科学者とも言える。この無邪気さが彼の成功の源とする見方も多いらしいが、サラリーマンには向いてないね。
エピソード 5 ボルツマンは1844年にウィーンに生まれた。両親はインテリの家系で、彼は中学時代から成績は抜群だった。学生時代から強い躁鬱病の持病があり、病院のカルテから分かるボルツマンの通院歴と、彼の科学的な業績との相関を調べると、歴史上の著名な研究業績は躁の状態のときに集中して生まれたことが分かっている。
また被害妄想的傾向があり、自他ともに天才と認める自分の能力が過小評価されて、社会的待遇が不当であるという思い込みが強かった。1900年頃からは、エネルギー論者との論争が始まり、疲れ果てた彼は、やがて本格的に精神を病み始め、結局、1906年、自らの命を絶った。


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北里柴三郎

エピソード 1 北里は32歳でベルリン大学に留学する。そこでは彼が研究したのは「破傷風菌」の純粋培養。破傷風の治療を研究するにはまず菌を純粋培養しないといけないが、当時、この破傷風菌の純粋培養は不可能ではないかという声が高かった。
そんなある日、同じ留学生だった森鴎外に、北里は培養中の破傷風菌を見せた。この時はまだ他の雑菌も混ざっていたのだが、破傷風菌は、不思議なことに培地の寒天の底のほうにコロニーを作っていた。北里は森に培養器を見せて説明しながら、突然閃いた。「破傷風菌は空気を嫌うのではないか」。この菌の嫌気性に気づいた北里は水素中での培養を試み、ついに破傷風菌の純粋培養に成功する。
エピソード 2 破傷風菌の単離に成功した彼は、破傷風の免疫療法を確立する。北里はひょんなことから、コカインの常用患者は、中毒患者が使用する量を与えても、コカイン中毒にならないことに気づいた。彼はこの原理を破傷風に応用できるのではないかと、思い立つ。
非常に薄い破傷風毒素をマウスに与え、徐々にその量を増やしていくと、致死量を超えてもマウスが生きていることを発見。これが免疫療法の第一歩になる。破傷風に対する免疫をもったマウスの血清を別のマウスに注射すると、そのマウスは破傷風にかからないことを実証し、世界を驚愕させた。
エピソード 3 東京医学校時代、北里はけっして「よい」学生ではなかった。かんしゃくもちで言い出すとひかないところがあり、町へくりだしては人と摩擦をおこし、「ケンカ北里」の異名をとった。
このころに形成された北里のバンカラの気風があったからこそ、留学先で医学の本家ドイツ人を相手に一歩もひかず世界的偉業をあげられた面は否定できない。
エピソード 4 北里にベルリン大学留学の道を拓いてくれたのは、東大(当時の帝大)医学部の先輩でもある細菌学者緒方正規。彼は緒方一族でもあった。この緒方が出した「脚気病原菌説」を北里は間違いだとドイツの最高権威雑誌で指摘。これ以来、北里は東大を頂点とする日本の医学界から徹底排除されることになる。典型的な「パワーハラスメント」(パワハラ)だ。
しかし、それにもめげずに北里は福沢諭吉をパトロンにつけ、伝染病研究所を創設。ここから志賀潔の赤痢菌発見、北島多一のハブ血清療法の確立、秦佐八郎のサルバルサン(梅毒の薬)開発など、世界的業績が生み出された。
エピソード 5 1914年、北里と犬猿の仲だった帝大医学部の部長が時の総理大臣大熊重信を動かし、北里の作った伝染病研究所の所轄を内務省から文部省に移した。これにより帝大の支配下になった伝染病研究所は、その所長北里も帝大医学部部長の部下となり、「いじめ」は必定の情勢となった。当然、反骨の北里は辞表を出し、これに部下たちも一斉に呼応して辞職。
北里に対する処遇に対して、1915年に一時帰国した野口英世は日本医学界に対してこう言っている。
「私はいわばメイド・イン・アメリカの人間です。それに対し、北里先生や門下生はメイド・イン・ジャパンの優れた学者たちです。みなさんはどうして、北里先生を大事にしようとしないのですか」

このようなことが今でも続いている古い体質の学会はある。。。


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*参考図書:「心にしみる天才の逸話20」 山田大隆著 講談社

ノーベル賞のエピソード

ホーライ製薬へ / 医薬品ができるまでへ

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