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ノーベル賞のエピソード集


ノーベル賞受賞のエピソードを集めてみました。 

*参考図書:「ノーベル賞の100年」 馬場錬成著 中公新書


白川英樹 野依良治 山極勝三郎 鈴木 梅太郎 他にも



白川英樹

エピソード 1 2000年のノーベル化学賞を受賞した白川英樹。彼の受賞理由はポリアセチレンという電気を通すプラスチックを世界で初めて発明したことによる。このポリアセチレンは厳然の実験間違いから出現した。
1967年の秋、研究室の助手をやっていた時代に、韓国原子力研究所から来ていた共同研究者と一緒に偶然、金属光沢をしたプラスチック・フィルムを作ったのである。
白川は偶然できた金属光沢のフィルムを見て仰天した。何故、このようなフィルムができたのか、徹底して原因を調べてみたら、ある試薬を通常の1000倍の濃度で使っていたことに気づいた。
料理で塩1グラムを使うところを1キロ入れたのだ。それは通常とは違うものができるよね。^^;
エピソード 2 金属光沢のあるプラスチックを偶然作ったはいいけれど、すぐにそれは成果として認められたわけではない。実際、電気もそんなに通さなかったこともある。ところがその10年後、東工大にセミナーで来ていたペンシルバニア大学教授のアラン・マクダイアミッドが、このフィルムを見て「オーッ!」と叫んだ。彼はすぐに白川を共同研究者として大学に招待したいと申し出た。これこそがまさにノーベル賞につながる運命の出会いだった。
エピソード 3 アメリカの研究グループは、合成化学と物性物理の両面から密接な共同研究を進めていた。研究環境が日本とまるで違うのだ。白川が日本で実現した画期的な発明は、日本では開花しないで硬いつぼみのままになっていたが、アメリカという国に持ち込むことによって、たちまちのうちに開花した。
それは1976年11月23日の火曜日だった。
エピソード 4 1976年11月23日。ヒーガー研究室の地下で白川はC・K・チャンと、プラスチックに電子を受け取りやすい物質である臭素を加える実験を始めた。三角フラスコの中に臭素を一滴加えると電気の伝導度が急激に上がった。それも10倍、100倍ではなく、100万倍、1000万倍と驚異的に上がった。
こうして、白川、マクダイアミッド、ヒーガーの三人は20世紀最後のノーベル化学賞受賞の栄冠を獲得する。
白川の研究の潜在力を見抜いたマクダイアミッドが偉い!!見抜けなかった日本は・・・・・・。

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野依良治

エピソード 1 2001年10月10日、名古屋大学教授野依良治の部屋にストックホルムからノーベル化学賞の受賞を知らせる電話が入った。ノーベル賞創設101年目にして初めて、日本人が2年連続受賞した。(その後、2002年に田中耕一が化学賞を受賞し、3年連続となる。)
野依の受賞理由は簡単に言うと、有機化合物の右手と左手を区別して造る方法(不斉合成:ふせいごうせい)を開発したことによる。
これは薬の分野では非常に重要なステップになる。彼は1966年(27歳)に世界で初めて分子触媒を使った不斉合成の反応の原理を発見し、33歳の若さで名古屋大学理学部の教授になっている。(同僚に名古屋大理学部出身者がいますが、とっても厳しい先生だったそうです。)
エピソード 2 化学物質の右手と左手を区別して合成する手法は化学産業にとっても、非常に重要な技術だ。野依博士がノーベル化学賞を受賞した直後に持っていた特許は日本では106件、アメリカでは35件、EUでは69点。日本の研究者では、これほど多くの特許を取得している人は少ない。
彼は、研究だけでなく日常の生活でも右と左の存在に興味を持っている。ロンドンには、左利きの道具を扱う専門店があるが、彼は機会があるとそこへ寄って、左利き用のコルク抜き、トランプ、定規などを買い求めているという。しかし、左利き用のトランプって一体・・・・・・。

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山極勝三郎

エピソード 1 北里柴三郎、野口英世がノーベル賞候補になっていたが受賞されなかった話は有名だが、ほかにも、過去にそのような科学者がいた。山極 勝三郎だ。
彼は、1915年にウサギの耳にコールタールを塗って、世界で初めて人工的に癌を発生させることに成功した。しかし、この頃、デンマークのヨハネス・フィビゲルが線虫によってネズミの胃に人工的に癌を発生させており、結局、フィビゲルのほうに軍配が上がり、ノーベル賞はフィビゲルが受賞する。ところが、この線虫による実験は後に、一般性がなく、誤りであったことが明白になる。 惜しかったね。

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鈴木 梅太郎

エピソード 1 ビタミンの発見者として知られる鈴木梅太郎がなぜ、ノーベル賞をもらえなかったのか。これは日本の科学界でも長い間謎になっていた。ビタミン発見の業績で1929年にノーベル賞を受賞したのはエイクマン(オランダ)とホプキンズ(イギリス)の二人だ。エイクマンはそれなりの業績も有ったが、ホプキンズは受賞直後からヨーロッパの一部で「なぜ?」という疑問の声まであったとか。
それなにの、何故鈴木梅太郎が受賞できなかったのだろうか? なんでだろう〜〜?
エピソード 2 鈴木梅太郎は「オリザニン」(ビタミンB2)の発見とその業績で、外国の有力な研究者から1914年にノーベル賞候補として推薦されていた。しかし国内では東大農学部の出身であるため東大医学部の出身などで作っている医学界からは軽視されていた。つまり欧米などでは「業績」に注目するが、日本では「出身校、学部」で人間を判断する。
これがさらに「アホ」な方向に進み、1927年に東大『農学部長』が鈴木をノーベル化学賞の推薦しているが、東大『医学部長』はノーベル生理学・医学賞の候補にホプキンズを推薦している。ホプキンズはビタミン研究でも知られている人だ。つまりビタミンの発見で鈴木がノーベル賞を受賞することを「潰し」にかかったのだ。それも学部は違うとは言え、同じ大学の身内が。。。

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他にも

エピソード 1 その他にも・・・

鈴木梅太郎の他に、戦前、日本人でノーベル賞候補として推薦されていた研究者は、梅毒の薬「サルバルサン」を作った秦 佐八郎、黄疸出血性レプトスピラ病(ワイル病)の病原体を発見した稲田龍吉、井戸 泰、強力磁石鋼を発明した本多光太郎などがいたが、いずれも受賞できなかった。

そして、日本人初の受賞者となったのが湯川英樹となる。
エピソード 2 湯川英樹のエピソードは「科学者たちのエピソード」で取り上げたので割愛。

朝永振一郎のノーベル賞受賞は、湯川英樹の業績抜きには語れない。湯川、朝永が活躍した時代の日本の理論物理学界は、世界のトップクラスの研究グループを形成していた。その拠点の一つになったのが、朝永がいて、仁科芳雄がリーダーとしてひっぱっていた理化学研究所だ。
湯川と朝永の二人が量子力学へ進むきっかけになったのは、中学時代に来日したアインシュタインの影響とさらに来日した若き二人天才ハイゼンベルクとディラックの講演を聴いたことだった。
エピソード 3 湯川秀樹と朝永振一郎が物理に傾注していくきっかになった若き二人の天才の講演。
その一人はハイゼンベルク(1932年ノーベル物理学賞受賞)。彼はマトリックス力学を創始し、オーストリアのシュレディンガーの波動方程式とともに量子力学の基礎を築いた。
もう一人はディラック(1933年ノーベル物理学賞受賞)。この二人が来日して講演した時は、ハイゼンベルクが28歳。ディラックが27歳。研究成果は年齢とは無関係にやってくるとは言え、
いやはや。。。。
エピソード 4 朝永は、その後、「場の量子論」に相対性理論との関係が必ずしもはっきりしない欠点があることに取り組み、空間の各点はそれぞれ固有の時間を持つという「超多時間理論」によってこの欠点を説明した。

電子・電磁場に対する場の理論は、物理量を計算すると全て無限大になるという矛盾を持っていた。
しかし、超多時間理論を適用すると、無限大の各項は電子の質量や電荷への補正と考えればよいことに気づき、無限大を電子の質量や電荷にくりこんで、全ての物理量は有限となり、理論と実験はほぼ一致した。

1947年に発表した「くりこみ理論」は、世界の理論物理学界にも衝撃を与え、1965年、日本人として二人目のノーベル賞を受賞した。
エピソード 5 1965年、朝永は「量子電磁力学の分野における基礎的研究」によって、日本人として二人目のノーベル物理学賞を受賞した。共同受賞者はアメリカのシュウィンガーとファインマン(このファインマンがまたとっても面白い人なのだ。興味のある方は「ご冗談でしょ、ファインマンさん」(岩波現代文庫)をお読みください)。
朝永と湯川は同時代に生きた理論物理学の巨人である。しかし、その手法は、まったく違っていた。
朝永は計算術に優れ、理論の細かいところまで熟知していた。文献をよく読み、講義も懇切丁寧であり、理論の説明でも歴史に遡って詳しく話した。
それに比べ湯川の講義は整理されておらず、学生や研究者はついていくのに、非常に苦労したらしい。
エピソード 6 日本人として三人目のノーベル物理学賞受賞者となったのは1973年の江崎玲於奈博士。彼は受賞当時、アメリカのIBMのワトソン研究所にいた。
江崎博士が言うには外国のノーベル賞受賞者は、みな意外なまでに幅広い知識を持っていることに強い印象を受けたとのこと。優れた科学者たちは「一芸に秀でた人間というよりも、むしろあらゆる視野を兼ね備えた教養人である」と語る。
この幅広い多角的な視点こそが、創造性の原動力になっていると言う。
エピソード 7 江崎博士のノーベル賞受賞は、それまでの受賞者と比べると、かなり特異だ。
受賞対象となった研究はソニーの前身の東京通信工業の研究者としてあげた業績だ。さらに、この業績が、博士論文にもなっている。
島津製作所の田中さんがサラリーマンノーベル賞と騒がれたが、その前に、江崎博士が日本人としては初めて、企業であげた業績でノーベル賞を受賞した第一号となる。
エピソード 8 1956年、ソニーにいた江崎は「エサキ・ダイオート」を開発する。60年に渡米し、73年に「トンネル効果」に関する業績でノーベル物理学賞受賞。
何故、彼はアメリカへ渡ったのでしょうか?アメリカのIBM研究所に招かれ、その主任研究員として学士院賞を受賞した65年、記者会見の席でこう述べています。
「日本に行けば給料が5倍になるとしても、アメリカにいたほうが研究はしやすい。」
大切なのは自由と独立の精神であり、それらが溢れるアメリカでこそ独創性が生まれるんだということを、彼は言いたかったのだと思います。
すぐに成果、利益を求め、地位や名誉をありがたがる日本に対しては「創造性が必要ない社会」とまで言い切っています。
56年にエサキ・ダイオードを開発しましたが、ご多分に漏れず、日本の物理学会は誰一人としてそのことに注目しませんでした。
エピソード 9 江崎玲於奈がノーベル賞を受賞した頃、彼の研究はすでに次のテーマへ移っていた。独創的なアイディアで別の課題に取り組み、着々と実績を蓄積していた。それは半導体超格子理論だった。
世界で初めて青色発光ダイオードの製品化に成功した現カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の中村修二も、この江崎理論を知り、発光層として薄いインジウム・ガリウム・窒素薄膜を多層に積み重ねた多重量子井戸構造を実現して成功したものだ。
江崎自身も「エサキダイオードの発見に比べると、超格子理論のほうが工業界に与えた影響は比べ物にならないくらい大きい」という。
エピソード 10 江崎玲於奈が若い学者や学生に語る「ノーベル賞を取るための5か条」

1.今までの行きががりにとらわれてはいけない。
2.大先生を尊敬するのはいいが、のめりこんではいけない。
3.無用なものは捨て、自分に役立つ情報だけを取捨する。
4.自分を大事にし、他人のいいなりになる人間にはならず、ときには闘うことを避けてはいけない。
5.いつまでも初々しい感性と知的好奇心を失ってはいけない。

どうです? あなたなら、どれが一番大切だと思いますか? 僕は4番、5番が好きです。
エピソード 11 前回紹介した江崎博士の「ノーベル賞を取るための5カ条」には、日本の研究現場に横たわる日本的な上下関係とその弊害の打破、独創性を発揮するための個人主義の勧めが巧みに織り込まれています。
5か条については博士は「十分条件ではない、単なる必要条件だ」と断っています。自分を向上させるというパラダイム(発想の枠組み)を確立させると、その人の生き方はいい方向へと進むと博士は言っています。
また、常に新しい知識を吸収しながら、自分を改革していける人間こそ真の教養人と言えると語っています。
エピソード 12 1981年のノーベル化学賞にアメリカのホフマンと当時京大工学部教授の福井謙一博士が決まったとき、新聞社の科学記者ですら「え!?福井謙一って誰?」という感じだったらしい。
有機化学を学んだ人にはお馴染みの「フロンティア軌道理論」の生みの親だ。
福井氏の自宅に集まった記者たちは盛んに「受賞は意外でしたか?」と連発したらしい。(意外だったのは、記者たちだけなのに。)その時の映像を僕も覚えているが福井氏はちょっと憮然として「意外という感じはないです。」と答えていた。そりゃそうだ。量子力学を駆使して、化学反応による生成物を予想できるという画期的な理論だったのだからね。
そして、いつものことなので、もう書くまいと思うが、やっぱり書いてしまいます。
福井氏を最も評価していたのは、共同研究者のホフマンら外国人研究者たちだった。
どうやら日本では他者を正当に評価するという能力は育たないらしい。
エピソード 13 福井謙一氏がノーベル化学賞を受賞した後の話しだ。友人であるベルギーのノーベル受賞者プリコジンが福井氏が所長をしていた研究所を訪問したことがある。
そのときプリコジンは、部屋に入るや否や、白板の上に研究者たちが書き残した理論化学の数式を見つけると、挨拶もしないで、自らのコメントを発し、すぐに討論に入った。 そのときのことを福井氏はよく嬉しそうに語ったそうだ。
世界の先端で活躍する科学者の付き合いとは、かくも崇高でときに激しく、友情に溢れていることか。。。
エピソード 14 福井謙一氏は奈良県に生まれた。少年時代は野山を飛び歩き、豊かな自然に囲まれて育った。自然はデリケートで美しいものであることを身をもって体験したことが、化学の新しい理論を考え出すうえで役立ったと彼は語っている。
少年時代に夢中になって読んだファーブルの『昆虫記』について、彼は「私の魂をゆさぶった。生涯の心の師でもある」と語った。
エピソード 15 京都帝国大工学部の学生時代、福井謙一氏は恩師の喜多教授の「数学が好きなら化学をやれ」、「応用やるなら基礎をやれ」という助言を受けて理論化学の道に進む。
この逸話は、僕も実際にノーベル賞受賞直後の福井氏の講演会に行った時に、聞いたことがある。「数学が好きなら化学をやれ」という助言は変わっているなーと、当時まだ院生だった僕は思った。
しかし、そのおかげで、福井氏は量子力学などを学び、34歳のときに大胆な化学理論を発表するわけだから、恩師の喜多教授の「先を見た助言」は、文字通り、とんでもなく「先を見据えた」助言だったのだ。すごい。。。
エピソード 16 福井謙一博士は画期的な電子軌道理論を打ち立て「フロンティア軌道理論」と名づけた。
彼の理論を化学界に広く認知させたのは、ノーベル賞共同受賞者のホフマンをはじめとする主としてアメリカの研究者であった。
それだけに福井氏は、ことあるごとに日本の研究現場に対し、国際的な視野と公正で適切な評価を厳しく求めていた。
自身の理論が、日本国内よりも欧米で早くから認められたことは、国内の学術研究の層の薄さであることに気がついていた。
ここで僕が注目したいのは、この手の話(日本人の成果なのに、まず欧米で評価される)が明治時代から永延と有るということだ。福井博士がノーベル賞をもらったのは、たった20年前だ。
何が、日本人をそうさせているのだろう?福井氏が気づいていた「国内の学術研究の層の薄さで」だけなのだろうか?
エピソード 17 87年のノーベル医学・生理学賞受賞者で、米マサチューセッツ工科大学(MIT)学習記憶センター長の利根川進教授(64)が4月12日、母校の京都大学で記者会見した。
まず日本の大学が抱える問題点を取りあげた。

 「日本の多くの大学教官には、いい学生、若手研究者を育てようという姿勢がない。米国では学部の卒業生は同じ大学の大学院には進まず、たいてい他大学に行かされる。大学院を出てポスドク(博士研究員)になる時も、アシスタント・プロフェッサー(若手助教授クラス)として職を得る時も、別の大学や研究機関に移るのが常識。米の指導教官は皆、若い学生や研究者の
“純粋培養”が彼らの創造性を奪うことを知っているからだ」
エピソード 18 利根川進教授の京都大学で記者会見の続き。

「米の指導教官は皆、若い学生や研究者の
“純粋培養”が彼らの創造性を奪うことを知っているからだ。
ところが日本は、教授が優秀な学生を囲い込み、教授自身のために実験の手伝いをさせようとする。学生の独創性は育たず、可能性の芽をつんでしまう。迷惑な話だ」

一方で学生の側にも課題はある、と利根川教授は言う。

「私の研究室にも聡明な日本の学生が来るが、知識と興味の幅が狭い。例えばがんの研究が主目的でも、免疫や脳の知識は必要だ。特定の狭い分野しか知らない人は、異分野の研究者が意見を交わすディスカッションにも参加できない」

「これも、教授が大学院生を実験助手のように使う慣行の悪影響だ。米国の大学院生は最初、実験助手などせず多種多様な授業を受ける。
広い分野の興味を持つことが科学者として非常に重要だからだ。」
エピソード 19 利根川進教授の京都大学で記者会見の続き。

利根川教授自身、分子生物学者でありながら、免疫学の分野でノーベル賞を受賞。その後、脳科学研究に移行した。
 「自分が免疫学者だと思ったことはない。分子生物学の手法を使って『おもろいこと』を探した時に見つけたテーマが免疫だった。脳科学も同様。分子生物学は、生命科学の多くの分野に応用できるが、
若い時にいろいろな教育を受けていないと、40歳を過ぎて専門を変えるなどできないのも事実だろう

MITの学部学生はハーバードやスタンフォードの大学院に入学することが多い。そんな交流の輪に日本の大学も加わることができるのか。

 「正直まだ厳しい。教育を重視すると研究がおろそかになる、などと言う教官がまだいる。
教官は常に学生から学んでいる。私も脳科学の研究を始めた時、多くの学生にアイデアをもらった。学生も教官を選ぶから、優れた研究者でないといい学生はついてこない

 では日本の大学が飛躍するカギは?

 「
結局はどんな研究をするかだ。独創的で面白いことをやれば、世界中の優秀な若手がやってくる。小柴昌俊先生(東京大名誉教授、ノーベル賞受賞者)の研究室などがいい例だ」
 「私自身に残された研究生活は5〜7年くらい。日本に戻るつもりはないが、現在の脳の研究を続け、結果を出す自信はある。そして私の元にも優秀な若手が集まっている。将来、彼らが画期的な成果を上げるはずだ」

記者会見の報告は今回で終了



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*参考図書:「ノーベル賞の100年」 馬場錬成著 中公新書


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