ホームページへ



はがき 1(1)

1

それは一枚のはがきから始まった。

10月のある日、ゴッホの描いた「椅子」の絵はがきがロンドンから送られてきた。

シンプルで存在感のある椅子の絵で、それは、僕の机の前にあるパーテションの壁にピンでとめられている。

その葉書には宛名である僕の住所と名前、それに差し出し人の名前が書いてあるだけで、他に文面は無かった。

差し出し人の彼女とは6ヶ月前から、あるプロジェクトの仕事をいっしょにやっていたが、クライアントである彼女の会社は大阪にあり、月に23回、僕が大阪に行った時に数時間打ち合わせをやるだけで、帰ることが多かった。



彼女はこのプロジェクトの中にあるチームのサブリーダーをやっていた。
僕の仕事はそのプロジェクトが予定通り進行するのを助ける役割をするだけだった。
解決しようとする問題とは何か?
その問題の本質とは何か? 会議の話題がポイントからそれていないか? etc.
これらに対するヒントを彼女たちに与え、解決策を見つける舵取りをする。


この種のトレーニングを受けていない一般のビジネスパーソンに道筋を与えるのが僕の勤めているコンサルティング会社の仕事である。
彼ら
/彼女らは、時に問題の本質をすり替え、時に問題の本質を見ようとせず、時にプロジェクトそのものから逃げようとする。
羊たちを一匹残らず小屋へ連れていく牧羊犬のような仕事を、僕はいろいろな会社(その従業員)を相手に8年間やってきた。



彼女のチームは、どちらかと言うとまとまりが無く(これは僕が相手をした9割のチームがそうだが)、会議も散漫になりがちだった。
リーダーが年齢だけで課長になったような人物で、自信がなく、いつもうつむきかげんに自分のことしか話さないタイプの男性だから、このチームがスケジュール通り進んでいることはサブリーダーである彼女の貢献がいかに大きいかわかる。



会議の中で彼女はチーム全員の聞き役にまわり、その交通整理を行っていた。
彼女は会議の時間の8割を聞き役にまわり、残りの2割のうち1割を交通整理に使い、最後の1割に自分の意見を言う。
その間中、彼女は
PCを使って、議事録を作成していた。
会議が終わると議事録も出来上がっていた。彼女の作成した議事録はちょっと特殊で、すべて“ひらがな”で打ってある。



全盲の彼女には漢字を選択することができなかった。





彼女はこの会社に入って6年になる。

所属は総務部で、最初は電話番をやっていた。
従業員がある人数以上の会社は一定の割合で、身体障害者を雇用する義務が法律で決められたため、彼女は採用された。


彼女はまず、部署内の90人の内線番号を覚え、次にPCの操作を覚え、ワープロ入力を覚えた。
目の見えない彼女がどんな苦労をして、これらを習得したのか僕には想像もできない。


そんな彼女の練習を見ていた総務部長が彼女に、たいした期待もせず、ひとつの仕事を与えてみた。
彼女にある会議を録音したテープを渡し、その内容を一字一句間違いなく入力する仕事、いわゆる“テープ起こし”だった。
2時間の会議内容を彼女は4時間で入力した。
次にその内容をまとめる仕事を頼んだところ2時間で提出されてきた。
彼女の聴力は目が見える人に比べたら比較できないほど素晴らしく、また、文章構成力は素早く、正確にまとめられていた。
総務部長はすぐに部内に、彼女の新たな仕事を通知した。
彼女が会社に入って2年目から追加されたその仕事は、依頼された部署の会議に出席し、その議事録を作成することだった。
会議が終了して、1時間もすると要領よくまとめられた議事録が提出されてきた。
ただし、それは相変わらず“ひらがな”だけの議事録なので、目でみるには苦労することだけが唯一の欠点だった。
そこで依頼した部署が最後にやる仕事は、彼女から提出されたきた議事録を再度、今度は“漢字”混じりに入力し直すことだった。
それでも、その時間は以前、部内のチーム員が議事録を作成していた頃に比べて“あっ”という間と言ってよかった。
そして、何よりも要領よくまとめられた議事録は、今まで返りみられることが無かった“議事録”そのものの存在価値を、全員に再認識させてしまった。
会議中に解ったつもりでいたことが、誤解だったり、なぜ、そのような発言がなされたのか、会議に出席している時よりも、議事録を読んだ時のほうが明確に解った。
誰が、いつまでに、何をすべきかが明示され、かえって困った人が増えたという逸話までができてしまった。



誰もが彼女の努力に驚き、その入力スピードに舌をまいた。
しかし、それでも、まだ彼女の能力は正当には評価されずにいた。
時に、それは過小評価の範囲を超え、彼女の能力に対する嫉妬心からの“不当な差別”と言ってもいいこともあった。
盲導犬に対する認識不足(例えば、勝手にお菓子をやろうとした)は、まだしも、あからさまに「犬の臭いが洋服につく」、「犬の毛が飛んでくる」という言葉を彼女に、はいていく人たちがいた。
そんな時に彼女はただ小さく「ごめんなさい。」とつぶやくことしか出来なかった。
そして、その人たちが、さらに冷たい言葉を彼女に投げつけて立ち去っていくと、彼女はまた黙々と議事録の入力を続ける。



視力を失った目からも、涙がでた。





その後も、しばらく彼女は単なるタイピストとしか扱われていなかった。あらゆる部署から会議に出席させられた。

入社して3年目のある日、米国からやって来た顧客との会議に日本人役員たちと同席した。
日本人と通訳の話すことだけを入力すれば良いということだった。
いつもの通り、会議中に議事録を作成していたが、会議が終了すると、その米国人は彼女のもとに歩みより、通訳を通して話しかけてきた。


「会議中、何を入力していたのか?」

「議事録を打っていました。」

「いつ提出できる?」

「今でも提出できます。」

「いつ、PCを習った?」

「会社に入ってからです。」

「いつから目が見えない?」

「生まれたときからです。」

「タイピストとしての専門教育はどこで受けた?」

「どこにも行かずに、自分一人で…」

「そこまで出来るのに、何年かかった?」

「2年です。」

米国人は通訳に彼女の入力した、議事録を読んで、どう思うか聞いてみた。
スピーチを短時間にまとめる特殊な訓練を受けたその通訳が見ても、彼女の議事録は素晴らしい出来ばえだった。
ただし、ひらがなだけで、読みづらいと通訳はその男に伝えた。



「英語はできるか?」

「いえ、できません。」

「是非、英語を覚えるといい。英語には“漢字変換”が必要ない。きみの入力したものが、そのまま議事録として使える。」

「…」

「そして、英語ができるようになったら、私に連絡をくれないか? 秘書として雇いたい。」

「…」

同席していた、日本人役員は目の前で行われるヘッドハンティングに唖然とした。


彼女はこの日から英語の勉強を始めた。
英語のタイピストとしての資格も欲しかったが、何よりも、他人の能力を素直に評価する国に憧れを持った。

そしていつか、そんな所で仕事をしたいと思い始めていた。





音だけの世界に生きてきた彼女は、リズミカルな英語のサウンドに惹かれた。
英語のテープを聞いては、それを入力していった。
確かに、漢字変換をしなくて良いのは効率的に見えたが、彼女の勤めている会社では、英語を使った会議があまり無いため、それほど役に立たなかった。
また、英語で要約する作業も、日本語のようにうまくはいかなかった。
そのため、何度か英語の勉強をやめようと挫折しかかったが、あの一人の米国人の言葉だけを支えに彼女は訓練を続けた。

そして、また、あの時の言葉は彼女に自信も与えた。



会議で出席者の発言を入力するだけだった彼女が、時おり、会議が迷路に入り込んだときに、それまでの流れを整理して、みんなに教えてやることがあった。
初めは、ただのタイピストとして誰も気にとめていなかった彼女の発言に驚いた。
議事録が回ってくると彼女を思い出すことはあっても、会議中は彼女の存在すら忘れられていることが事実だった。
“ただのタイピスト”は意見を言わなくてもいい、ということを回りくどく言う出席者もいた。
しかし、それでも彼女は、みんなが何故、こんなことに議論を交わしているのか解らなくなってくると、助け船を出した。
それは、彼女が持って生まれた性格から来るものだった。
“周りに困っている人がいたら助けてあげたい。少しでもみんなが幸せになれることなら進んでやりたい。”
と彼女は思っていた。
そして、いつも目が見えないために、自分の思っていることの半分も出来ないことを悔しがり、その結果、自信をなくして生きてきていた。
それが、あの時の米国人の一言により、本来の自分を少しずつだが、出せるようになってきた。



彼女が会議の交通整理を始めて半年もすると、比較的、オープンな心の持ち主が議長を務めている時には、彼女に意見を求めるようにもなってきた。
それまで、部内のあらゆる部署の会議に出席してきた彼女の知識はある意味で、最も信頼のおける情報源でもあった。
そのため社内のライバルの弱みを握ろうとする者たちが、彼女から情報を聞き出そうとしたが、そんな時、彼女は困った表情を浮かべ、首をかしげて相手のほうに顔を向けて、ただ、黙っていた。
彼女の真摯な態度で見つめらると(本人たちはそう感じてしまう)、自分の行為がたまらなく下劣に思え、今では誰もそんなことを彼女に聞く者はいなかった。



初めて会議で意見を求められた時、彼女はドキドキした。

“自分の意見が言える!”それは自分の存在が認められたことでもあった。
子供のころから、周囲の手を借りないと生きていけない存在だったため、常に控えめに生きてきた。
自分が“希望”を言うことは周りの人たちに迷惑をかけることだと、ずっと思ってきた。
だから自分の意見を言うことには慣れていなかったのだ。
初めはうまく意見が言えず、くやしいこともあったが、時には出席者のひとりが会議後に、彼女に励ましの言葉をかけ、時には別の出席者が、彼女の会議中の助言に感謝の言葉を言ってくれた。


こうして、徐々に自信を持ち始めると、言葉を選び、会議の方向性を見定め、意見を言えるようになってきた。
そして、いつのまにか、彼女の正確な知識から出される、ポイントをはずさない意見をみんなが期待するようになった。

そして、ひとつのことに自信を持つと、本来の前向きである彼女の性格が全面に押し出され、性格も明るくなり、積極的に外部の世界と関わりをもつようになってきた。

もう誰も犬の臭いや毛のことを言わないし、たかがタイピストと言う者もいなかった。

彼女は心から、あの米国人に感謝した。



こうして、入社して6年目になると、彼女は部内の全部署にまたがるプロジェクトで、あるチームのサブリーダーに選ばれることになった。



続きへ




ホームページへ



inserted by FC2 system