はがき 1(1)
1
それは一枚のはがきから始まった。
10月のある日、ゴッホの描いた「椅子」の絵はがきがロンドンから送られてきた。 シンプルで存在感のある椅子の絵で、それは、僕の机の前にあるパーテションの壁にピンでとめられている。 その葉書には宛名である僕の住所と名前、それに差し出し人の名前が書いてあるだけで、他に文面は無かった。 差し出し人の彼女とは6ヶ月前から、あるプロジェクトの仕事をいっしょにやっていたが、クライアントである彼女の会社は大阪にあり、月に2,3回、僕が大阪に行った時に数時間打ち合わせをやるだけで、帰ることが多かった。
彼女はこのプロジェクトの中にあるチームのサブリーダーをやっていた。 彼女のチームは、どちらかと言うとまとまりが無く(これは僕が相手をした9割のチームがそうだが)、会議も散漫になりがちだった。 会議の中で彼女はチーム全員の聞き役にまわり、その交通整理を行っていた。
全盲の彼女には漢字を選択することができなかった。
2
彼女はこの会社に入って6年になる。 彼女はまず、部署内の90人の内線番号を覚え、次にPCの操作を覚え、ワープロ入力を覚えた。
視力を失った目からも、涙がでた。
3
その後も、しばらく彼女は単なるタイピストとしか扱われていなかった。あらゆる部署から会議に出席させられた。 入社して3年目のある日、米国からやって来た顧客との会議に日本人役員たちと同席した。 「会議中、何を入力していたのか?」 「議事録を打っていました。」 「いつ提出できる?」 「今でも提出できます。」 「いつ、PCを習った?」 「会社に入ってからです。」 「いつから目が見えない?」 「生まれたときからです。」 「タイピストとしての専門教育はどこで受けた?」 「どこにも行かずに、自分一人で…」 「そこまで出来るのに、何年かかった?」 「2年です。」 米国人は通訳に彼女の入力した、議事録を読んで、どう思うか聞いてみた。
「いえ、できません。」 「是非、英語を覚えるといい。英語には“漢字変換”が必要ない。きみの入力したものが、そのまま議事録として使える。」 「…」 「そして、英語ができるようになったら、私に連絡をくれないか? 秘書として雇いたい。」 「…」 同席していた、日本人役員は目の前で行われるヘッドハンティングに唖然とした。
彼女はこの日から英語の勉強を始めた。
4
音だけの世界に生きてきた彼女は、リズミカルな英語のサウンドに惹かれた。 そして、また、あの時の言葉は彼女に自信も与えた。
会議で出席者の発言を入力するだけだった彼女が、時おり、会議が迷路に入り込んだときに、それまでの流れを整理して、みんなに教えてやることがあった。
彼女が会議の交通整理を始めて半年もすると、比較的、オープンな心の持ち主が議長を務めている時には、彼女に意見を求めるようにもなってきた。
初めて会議で意見を求められた時、彼女はドキドキした。 “自分の意見が言える!”それは自分の存在が認められたことでもあった。 そして、ひとつのことに自信を持つと、本来の前向きである彼女の性格が全面に押し出され、性格も明るくなり、積極的に外部の世界と関わりをもつようになってきた。 もう誰も犬の臭いや毛のことを言わないし、たかがタイピストと言う者もいなかった。 彼女は心から、あの米国人に感謝した。
こうして、入社して6年目になると、彼女は部内の全部署にまたがるプロジェクトで、あるチームのサブリーダーに選ばれることになった。
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