「癌告知」あもうさんの場合
癌の告知 -私の場合-
がんの告知「私の場合」amou 私が、がんを告知されたのは8年ほど前になりますが、私の経験が何らかのカタチで参考になればと思い駄文を投稿させて頂きます。 私は救急車で運ばれるまで健康だけが取り柄の、病気とは縁のない人間でした。救急車で運ばれた日は、ただ痛み止めの注射1本打ってもらって帰されただけでした。不安だったら後日外来に来てくださいと言われたのみでした。 当時、下の子供がまだ2歳だったこともあり仕事にも就いていなかった私は、今思うと幸運でした。もし、仕事で忙しかったとしたら?・・・たぶん忙しさにかまけて外来を訪れることはなかったでしょう。たぶん、今こうしてPCに向かえることも。。。 病気と縁遠かった私には病院を選ぶ基準は家から近いかどうかだけだった様な気がします。 今まで感じたことのない痛みだと思った私は、痛みはもう収まっていましたが、運ばれた病院の外来に足を運びました。 内科でお腹を指診してもらい何も告げられぬまま婦人科へ行くように言われました。 指診をしてくれた医師は年配の熟練した方でした。 後から聞いた話しではその病院の院長先生とのことでした。 婦人科では、内診をし採血をし、MRスキャン(?)を撮りました。 医師も看護婦さんも下を向いて寡黙でした。 ただ、私だけが状況を飲み込めずどうしたのだろう?という顔をしていたのだと思います。 この段階では、まさか自分が癌かも知れないなんて『微塵も』思っていませんでしたから。 その日のうちにスキャンの写真は見ることができました。 素人の私です。見ても何が何だか分かりません。お腹の中は普段見ることは出来ないし、スキャン写真だってその時見たのが初めてでした。 医師 「こんなに大きくなるまで気がつきませんでしたか?」 わたし「は? 2人目の子供を産んだ頃からお腹の痛みと頭痛がひどくなったと感じてましたけど、子宮の収縮が遅いのかな、くらいにしか考えてませんでした。。」 まだ30代であろう若い医師でした。とても真剣な顔で話してくれました。 医師 「卵巣に腫瘍が出来ています。乳児の頭くらいの大きさです。良性であるか悪性であるか切ってみないことには分かりません。早く手術をしたほうがいいです。手術前検査をして、明日は胃カメラを飲んでいただきます」 わたし「??????????」 今まで、健康だけが取り柄の私でした。 何か真面目な話しをされた、でも一体何のことだろう? 手術? 手術前検査? 胃カメラ? ??? 腫瘍? 良性?悪性? 何のこと? ??? この時も、私は癌の「が」の字も思い浮かべなかったと思います。 8年も前の話しですので記憶もおぼろですが、医師が私に話しをする時に『信頼関係』という言葉を何度も繰り返し言っていたような気がします。 今思えば、きっと今後の治療のやり方だとか手術後の告知のこととかのことを考えて医師はその言葉を出していたのだと思います。 でも、なにぶん素人の私です。専門的なことは何ひとつ分からないのですから理解できません。 わたし「信頼関係? ??? 何を言っているんだろう? ???」 私は 「????」 のまま検査用紙を渡され検査室の場所を教えられ、レントゲンを撮り、肺活量を測り、心電図を取り、尿検査をし、胃カメラ検査を受けるにあたっての注意事項を書いた用紙をもらい、「????」のまま婦人科の診察室に戻り(血圧も測ったかも知れない、もっと何かしたかも知れない、でも憶えてない)医師の前へ。。。 医師 「手術の日は、○月○日に予定を入れました。次回、ご家族の人と来てください」 わたし「?????? あ、はい。 ??????」 何か、今までと違うことが起こり始めたようだ。 でも、一体。。。 とにかく疲れた。たくさん検査をした。料金もたくさん取られた。 「結局、私は何の病気なんだろう? 手術で何を取るんだろう? ?????」 長い一日でした。 でも、私はまだこの時点でも「癌」という病名に辿りついてはいませんでした。 癌「かも知れない」という疑問さえ抱かなかったのだと思います。 癌という病気は、私には関係のない、遥か遠い彼方の出来事でしかない、という認識しか持っていない私でした。 まだ「がん」という病気と結びつけていなかった私は、長期の入院は困るなぁ。。。と思いながら胃の検査のため病院へ向かいました。 「家族なんて連れて来れないよ。姑は高齢だし、ダンナは忙しいし。たいしたことない、おできが出来たくらいで。でもなんで胃なんか検査するんだろう」 今振りかえると本当に病気に無知だったなぁと思います。 胃の検査は苦しいものでした。 胃カメラより、ちょっと進歩した胃ファイバー(?)というものでした。 ちょうど、夏祭りなどで売っている光りのストローが束になったような、くねくねしたシロモノでした。 検査の前に喉に苦い薬をつけられました。 麻酔の薬だそうです。 診察ベッドのように固いベッドの上に横になり、空っぽの胃の中にそのクネクネしたものを挿入されました。 異物が入った時に身体というものは反射的に吐き出そうとするんですね、何度も吐き出そうとしてしまいましたが、クネクネは挿入し続けました。 涙は出る、よだれは出る、検査技師の白衣を思いっきり引っ張っている私がいました。 再度、婦人科診察室へ 「家族は都合で来られませんでした、入院はどのくらいなのでしょうか? 困るんです。子供も小さいし。」 と私が言うと、 「う〜ん、良性の場合は1週間くらい。でも悪性の場合は何ヶ月になるか。。。」 ここで初めて私は何か悪い病気なのではないかと分かり始めたような気がします。 何ヶ月!? そんな! とんでもない! 後、何を話されたのか、・・・・・憶えていません。 とにかく大変なことだ、家族には言えない、でも、どうしよう。。。。 家に帰っても私は入院の話しはしませんでした。 とにかくその時大事だったのは、下の子の3歳の誕生日だったのです。。 誕生日も無事済ませ、さぁどうしようかと考え始めました。 医師は「腫瘍」だと言っていた。 良性? 悪性? 良性だと一週間で済むものが、なんで悪性だと何ヶ月にもなるのか。。 私は、ここで初めて「家庭の医学」を開いてみることにしました。 「卵巣脳腫」については広くページを割いての説明がありました。 しかし、「卵巣がん」についての説明は1/8ページほどしかありませんでした。 数行の説明の最後に 「卵巣がんになるケースは稀な場合が多いので、まず心配ないでしょう」 というような書き込みがあったことを記憶してます。 確か、4000人に1人とか4000万人に1人の確率だとありました。 (随分あやふやな記憶で申し訳ありません。当時の本を紛失してしまったため確認できません) 治療についての説明は極めて少なかったような気がします。 ただ腫れているだけだ、まさか私が癌だなんて。。 くじ運は昔からない私だし、確率的にもまさか。。まさか。。 とにかく早く手術をして取ってしまおう。 きっと何でもないはずだ。 まだ血液検査の結果を聞いていなかった私は、とりあえず悪い方へは考えないようにしました。 手術するにあたっての協力を誰に頼むかの方が先決でした。 やはり、実家の母親に頼むしかない、結論はそうでした。 母親はすぐ飛んできました。仕事も抱えていたはずなのに。。 病院へ一緒に連れていくのも母親に決めました。 再度、母親と共に、婦人科の診察室。 「血液検査の結果が出ました。腫瘍マーカーのCA125の数値がとても高いです。」 また訳の分からない言葉でした。 腫瘍マーカー?? その時点での私は、とにかく早く悪いところを取ってもらって、すっきりしたいというのが本音でした。 なんだかんだ心配しても始まらない、結果が分かったらまた心配すればいいと心に決めていました。 私は、この病院で手術を受けるつもりでした。 入院の手続きを済ませ、病院を出るまで母親は黙って何か考えているようでした。 いつもはうるさいくらいにおしゃべりな陽気な母親なのですが。 病院の出口を出ようとするその時、母親は言いました。 「だめ! この病院で手術を受けてはだめ!」 「え? そんな、ダメって言ったって。もう手続き済ませちゃったじゃない」 当時の私は病院というものにそんなに差異があるとは思っていませんでしたし、担当の医師はとても真剣で真面目な人だと今までの応対で分かっているつもりでした。 とにかく早く悪い所は切りとってもらいたい 私の頭にあるのはそれだけでした。 「知り合いに病院に詳しい人がいる。相談する。」 母親の顔は真剣で、気持ちはもう変わらないよと言っているようでした。 それからの母親の行動は敏速で、もうその日のうちにその知人に連絡を取り病院を決め診察の日まで決めてしまいました。 ばたばたと病院を変えることを医師に告げ、入院手続きを取り消してもらい、その時紹介状を書いてもらったのかどうか。。。 あまりにばたばたと決まったので記憶があいまいです。 「病気で手術するのは初めてなのだから、安心できるところがいい」 母親は当時そう言いました。 「どこも同じでしょう?」 と言う私に、 「ううん、だめ! お母さんが安心できない」 そう、母親は言いました。 随分後になって母は私にこう話してくれました。 「暗い雰囲気の病室はだめ。待ち合い室を見てもお年寄りばかりで若い患者さんがいなかった。 そんな雰囲気のところで手術を受けさせるわけにはいかないと思った。気分的なものは結構大事なのよ。」 確かに、母親の知人に紹介された病院は都心にあるせいか、待合室での患者さんはお年寄りもたくさんいましたが、働き盛りの人々で混雑していました。 担当医も、前の病院では1人の医師であったけれど、その病院では、なんと3人もの担当医師が私に付くことになったのです。 すべてがシステマチックに動き、病気で塞いでいられない雰囲気もありました。 それまでただの主婦で、夫と姑に悩み子供の育児に振りまわされ生活してきた私は、結婚前の職場にいる雰囲気を思い出していました。。。 最初に診察に向かう日、母はこう言いました。 「髪をさっぱりさせなさい。きちんとした服装で。そして入院生活を楽しみなさい!」 多くの病気の人達が治療を希望している病院のため、入院まで1週間ほど待たされることになりましたが(それでも早い入院だと言われました。緊急入院の部類だったようです)、私はこの病院で手術を受けることになったのです。 入院まで1週間。 家庭のこと、子供たちのこと、その他面倒なことは私が思う前に、母親がすべて先回りをしてくれました。 「今まで頑張り過ぎたのだから、 休暇のつもりでゆっくりしてきなさい。 家のことは心配しなくていい、お母さんに任せなさい。」 からからと笑いながら言う母に、私は思い切り甘えることにしました。 「そうだよね、たった1週間の入院なのだから、盲腸にでもなったつもりでいればいいよね。あはは。」 この時点でも尚、私達は、入院は1週間で済む、と思い込むようにしていました。 顔で笑いつつ、誰もが不安な気持ちでいました。。 入院までの1週間、実は密かに、私は本屋で見つける限りの本を購入していました。 そして、家族のみんなに気づかれぬよう、隠れて貪り読みました。 『ガンに打ち克つ14通の手紙』(藤本和代 + 林 槇子 山手書房新社) 『ガンとたたかう ガンと向き合う』(草間 悟監修 藤井護郎著 農文協) 『自分で治す がん』(ワンテーママガジン 朝日新聞社) 『いのちと生きる』(重兼芳子) これらの本を読んで私が感じたこと、それは、頑張っちゃう人が多いなぁ、ということでした。 不安を感じつつも、きっと私は違うだろうという方向にそれでも私は思い込み、母親のおだてもあって、思い切り身体を休めよう、という気持ちでいたのでした。 この時点での私は、まだ「がん」は他人ごとでしかなかったのだと思います。 あと私は、それまで私が、がんについて抱いていたイメージとは違う「がん」というものを、知ることにもなったのです。。 病気とは縁のない私がそれまで抱いていた「がん」のイメージとは。。 ・不治の病→退院できぬまま、早い死を迎えるのだろう。。 ・苦しい治療→髪が抜け落ち、ベットに縛り付けられる生活。。 ・莫大な治療費→大丈夫だろうか。。 ・痛み→とてつもなく痛いのだろう。。 なんともお粗末なイメージでした。 しかし、私にとっては恐ろしいイメージでした。 苦しくて醜くなっていく自分をイメージすることでした。 でも、実際は。。 ・がんにも多くの種類があり、段階があるということ。 ・外科手術により、元気に日常生活を送っている人が多く存在しているということ。 ・治療法は日々、飛躍的に進歩しているということ。 ・高額医療補助が受けられるということ。 ・痛みは末期に多くみられるもので緩和の方法も色々あること。 ・髪が抜け落ちるのは抗がん剤の副作用であって、治療が終わればまた元に戻るのだということ。 ・”自然治癒力”ががん治療に効果を上げているということ。 ”がん=必ず早く死ぬ” と短絡的にイメージしていた私は、妙に安心しました。 ”元気に日常生活を送っている人が多く存在しているということ。” これは、私にとっては意外でした。 姑も、その中のひとりではありますが、例外と思っていました。 がんは、初期であればほぼ完全に治癒するものなのです。 たとえ末期だとしても、たとえあと余命幾ばくもないと言われても、現実に長寿をまっとうしている人達はたくさん存在しています。 そういう不思議なことは、たくさんあるのです。 希望を捨ててはいけないのです。 このことは、とても私を勇気づけてくれました。 『危険を知るもののところには危険はやって来ない』 という諺があります。 正しい知識は不安を遠ざける、私はそう思います。 私の場合、本で知り得たことは、人間にはまだまだ知り得ない不思議なことがたくさんある、ということでした。 告知に至るまでの前置きが長くなってしまいましたが、素直に告知を受け入れるためには、やはり長い時間が必要なのだと思います。 転院は手術を遅らせましたが、私にとってはプラスでした。 正しいがんの知識と心の準備をすることが出来ましたから。。 さぁ、いよいよ入院です。 私はそれまで長かった髪をカットしてさっぱりさせました。 また、入院生活を楽しむべく、それまで家事育児で読みたくても読めなかった本やら、聴けなかった音楽のテープやらをかき集め、また、長く連絡を取れずにいた友達へ手紙を書くための便箋や封筒を用意しました。 初めての病気! 初めての入院! 初めての手術!! 掃除も洗濯も食事の仕度もしなくていい!! ゆっくり休むことこそ、入院患者のすべき仕事だ!! な〜んだか、意地でもワクワクしてやるぞ、という気持ちになったのでした。 私にはいとこが何人かいますが、いちばん大好きないとこが真っ先にお見舞いに来てくれました。 「えぇーーっ!! 4000万人にひとりの確率ぅ〜っ?? ”がん”というだけでも、すっごい有名な病気で一般人が滅多に罹れないというのに、卵巣がんはそれより凄い!!」 私は、4000人にひとりかもとも思いましたが、大好きないとこでもあるし少し大げさに話したのでした。 いとこの予想通りの反応に気をよくした私は、もう来るものは来い!という心境になっていました。 やっと受け入れる体制が私の中に出来てきたのでした。 都心の、しかも産婦人科の病棟は、ビジネスホテル並みでした。 明るい雰囲気、床には絨毯、看護婦さん(今は看護士さんと言わなければいけないかな?)達も皆美しくキビキビと立ち働いておりました。 そして何より! 同室の患者さんたちの凄さでした。 20代、30代、40代。。 皆さん、働き盛りの女性達がほとんど。。 主婦は私を入れて年配の方と2人くらいだったと思います。 (あ、ちなみに歳を暴露してしまいますが、当時私は33歳でした。) 病気はそれぞれ違いましたが、ベッドで仕事してる人までおりました。 そういう方々が、3〜5日ほどで順繰りに入院しては退院されていきました。 病気で塞いでいる女性など見かけられません。 悪いところは即治し、また仕事へと戻って行く女性達。。 「す、凄い。。」 私の素直な感想でした。 また前置きが長くなってしまいましたね。 でも、入院というと「苦しい、暗い、死を待つ。。」 というようなイメージだった私には、とてもカルチャーショックを受ける位の刺激的なことでしたので、 書かせていただくことにしました。 そこで私は、 「悪い個所は治す、退治する、仕事に復帰できるようにしてもらう」 というような強い意志のようなものを感じたのでした。 入院最初の1週間は、検査、でした。 最初の病院で、MRI、胃、肺、腫瘍マーカーの検査を終了させていましたが、再度、新に行ないました。 ちなみに、胃の検査はバリウムを飲んでの検査でした。 プラス、大腸、腹部スクリーニング、内診エコーも。 これらは、結構辛いものがありました。 病気で気力を失っている人にはかなりキツイと思います。 私には、手術よりも検査のほうが厳しく感じました。 やはり、今思い返すと、検査の実態を知らなかったことに原因があるように思います。 多少でも知っていたのなら、心の準備が出来ますから。 また逆に、検査に堪え得る気力と根性があれば、あとは恐いものはありません、とも言えるかも知れません。 胃も、肺も、大腸も、幸い異常なしでした。 悪い個所は、卵巣のみ、です。 ターゲットは卵巣に絞り込まれた、といった感じでした。 その検査の合間にいろいろなアンケートがありました。 病院食アンケート、告知に関するアンケート。 (この告知に関するアンケートは素晴らしいものでした。 次回、書かせていただきます。) あと、医療スタッフの方々が代わる代わる挨拶に来られました。 担当医師はもちろん、担当看護婦(士?)、麻酔担当医、術場看護婦(士?)、の方々でした。 この、ご挨拶は恐縮ものでしたが、私のようなものに、これだけの優秀な方達がスタッフとして関わってくれているのだ、ということを実感させてくれるに充分でした。 ヘンな話しですが、これでがんじゃなかったらスタッフのみなさんに悪いのではないか、とさえ思ってしまいました(笑)。 アンケートにご挨拶、これらは、この病院の治療に対する熱意を感じさせてくれました。 私に、手術に立ち向かう気力を与えてくれたように思います。 告知に関するアンケート。 まさか、8年後にこのようなカタチで体験談を書くなんて当時は思いもしませんから、あいまいな記憶に頼って書くことをご了承ください。 アンケートの題名があったかどうか。。 思い出せません。 『手術後の細胞検査の結果が悪性の場合、それを誰に、どのように伝えて欲しいですか?』 という項目があったことだけ鮮明に覚えています。 a.まず自分に伝えて欲しい b.絶対に自分には伝えないで欲しい c.家族(夫or子供or実母or実父orその他)に伝えて欲しい d.恋人の( )さんに伝えて欲しい e.友人の( )さんに伝えて欲しい f.その他( ) 項目がいくつも書かれており、○で囲むようになっていました。 このアンケートは、否が応にも「がん」と自分を向き合わせるものでした。 『ご自分のご病気について、どうお考えですか?』 『病気の治療について、ご心配なこと、不安な点、その他、ご意見、ご要望など、何でもお書きください』 改めて書き出してみると、かなりシビアですね。。 でも、当時の私は「素晴らしい!」と思ったのです。 お医者さまに、面と向かって言えないことも、紙に向かってなら書ける、そう思いました。 特に私の場合、ある程度「がん」についての本を読んでいましたので自分の心の中でいろんな整理が出来ていました。 ”自然治癒力”という気力のようなものが、がんの治療に効果をあげている、ということに興味を持っていた私は詳しく病気について知ることを希望しました。 不安な点は、「子供のこと、入院期間がどのくらいになるのか」でした。 告知については、できれば家族に伝えて欲しくない、と思いました。 これは項目の中にはなかったように思います。 家族に伝えることは自分から、そう強く思ったことは覚えています。 手術の前に説明があります、と伝えられていました。 インフォームドコンセントという言葉は、当時やっと新聞に現われ出てきた新しい言葉だったように記憶してます。 当時の私は「病気や治療について詳しく医師から説明を受ける」というように理解しました。 自分が病気になるまで新聞のそんな記事には目もくれなかった私。 医療やがんに関する記事は意外と多く、ビックリしたものでした。 説明は、カンファレンス室(だったと思う)とネームの書かれた個室で行なわれました。 インフォームドコンセントの記事を読んでいた私は結構期待していたのですが、手術の簡単な説明に終わった、といった感じでした。 ・電気メスを使うこと ・どこの部分をどれくらい切るのかを図で説明 ・卵巣と子宮とを全摘すること ・手術の時間 このくらいだったでしょうか。。 アンケートであまり手術のことでの不安を書かなかったせいか簡単でした。 手術については私も無知であったため、質問というものが出来ず、医師が話してくれることを素直に聞くしかありませんでした。 「とにかく手術してみなければ分かりません」 まだがんであるのか、良性ののう腫なのか、判断のつかない手術前。 中途半端にならざる終えない手術前の説明でした。 化学療法、つまり抗がん剤治療、です。 言葉というものは難しい。 面と向かって言えない時、どうも言葉というものは分かりにくくなっていくものらしい。。 ですね。 「がん」であると面と向かって言えない時、「悪性」という言葉となる。 「抗がん剤治療」と面と向かって言えない時、「化学療法」という言葉となる。 当時、抗がん剤の副作用についての私の知識は、 ・毛が抜ける。 ・吐き気がする。 これくらいの知識でした。 やはり、ぎりぎりにならないと知識というものを得ようという気は起こらないようです。(私が勉強嫌いだというのもありますが(笑)) イメージは、それこそ頭がパンパンになるくらい膨らんでました。 きっと今まで味わったこともないような気持ち悪さなのだろう。 髪が抜け、やつれ、、醜い顔になるのだろう。 「辛い」「醜くなる」 ・その辛さに耐えられない自分を見るのは嫌だ。 ・その辛さに耐えられない自分を見られるのが嫌だ。 ・吐き気がどんなものか想像もつかない。 ・醜い自分を見るのも見られるのも嫌だ。 嫌だ、嫌だ、嫌だ。。 そんな時、私の隣りのベットに 抗がん剤治療7回目だという女の子が入院してきました。 正直、私はその子を直視できませんでした。 薄くなった頭髪、痩せた身体。。 カーテンの向こうで医師と話している言葉はとても明るく元気そうだったけれど、私はカーテンを開けてその子と会話するのが恐かった。 私の抗がん剤治療は手術1週間後の月曜からだったと思います。 その子が来たのが確か土曜日。 日曜は自宅に帰ってもよいと言われていた私は外泊希望を出しました。 どうしようかと思っていたのですが、その子と過ごすのが、やはり、恐かった。 自宅に戻り、私はありとあらゆる音楽テープと笑える本をかき集めました。 自分が過去に一番エネルギーを感じたもの。 高校の文化祭でバンドを組んだこと、心躍らせた曲、 お腹の底から笑えたモノ、心底感動した言葉、自分が楽しかった過去の思い出たち。。 「どんなに辛くても5回で終わる。 あと10年は、それで生き延びることができる。」 自分で自分に言い聞かせて月曜の朝、再び病院へと向かったのでした。 病院へ戻るとその子は点滴を受け静かに眠っていました。 吐き気に苦しんでいる様子もなく、ひたすら静かに眠っておりました。 その子が起きた時に少し話しました。 彼女は仕事もしていて、その合間に抗がん剤を受けているとの事でした。 「以前の抗がん剤は辛かったけれど、 今は眠っちゃうからそんなに辛くないよ」 静かに話してくれました。 医師が来て点滴を打つ時が来ました。 とても緊張しました。 枕もとには音楽テープと本を用意し、いよいよ抗がん剤体験です! と、ここで私は当時を振りかえり、どんな感覚だったかを一生懸命思い出しているのですが、ごめんなさい、うまく思い出せないのです。 思い出せるのは、音楽をフルボリュームで聴いて楽しんでる自分です。 あと、笑える本を読んで楽しんでる自分。 眠ってる自分、黄色い胃液を吐く自分、下痢で苦しんだ自分、トイレに行かなくても済むようにチューブで繋がれていたような気もするのですが、記憶がとても曖昧なのです。 とにかく3日ほど、ずっとベッドに寝かされ、ひっきりなしに点滴を受けました、朝も昼も夜も、です。 初回の抗がん剤治療は、そんな風に終わり、点滴を抜いて、2日ほど休養、退院することになりました。 検査に1週間、手術に1週間、抗がん剤治療に1週間、合計3週間の入院生活でした。私の初めての入院、初めての手術、初めての抗がん剤治療はこのようにして終わったのでした。 その後、1ヶ月の間隔を置き、残り4回の抗がん剤治療を受けました。 1回の入院は5日ほどの短期入院です。 私は、合宿にでも行くような感覚で入院に臨みました。 抗がん剤の副作用は、立ち向かう「気力」のようなものが絶対に必要だと思います。癒してもらう感覚では、あの治療はとても辛いものがある、そう思います。 抗がん剤に関しては、まさに「闘い」かも知れません。 「闘い」には「闘争心」が必要です。 そして、これを受けれなければ「死んでしまう!」 という危機感もプラスしたかも知れません。 私は幸い、さほど頭髪は抜けませんでした。 元来頑丈なのでしょうか、風邪をひくこともなかったです。 これで、私の体験談は終わりです。 辛さを細かく思い出し、表現することの難しさを感じました。 果たしてお役に立てたか、はなはだ不安ですが、正直に印象に残っていることを書かせていただきました。 最後は長くなりましたが、最後まで読んでくださったみなさまに感謝いたします。 そして、こんな私の拙い体験談を貴重なHPで連載してくれたホーライさんにお礼を言いたいです。 ホーライさん、本当にありがとうございました! 終わり |